『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』はボブ・ディランの素晴らしさを再認識させられる、熱い時代直前の人間ドラマ。

『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』
2月28日(金)よりTOHOシネマズ日比谷、丸の内ピカデリー、109シネマズプレミアム新宿ほか、全国公開
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
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公式サイト:https://www.searchlightpictures.jp/movies/acompleteunknown

 最初に言ってしまうと、『名もなき者』は同時期を生きてきた人間にとっては記憶が鮮明に蘇り、深く浸りこんでしまう作品である。ボブ・ディランというカリスマの軌跡を描いているが、なにより時代が映像から鮮明に浮かび上がってくる。もちろん、彼がお生み出した名曲の数々が同世代の心を揺さぶるのは間違いない。
 激動を予兆する1961年、ミネソタからニューヨークにやってきたディランが折からのフォークソング台頭の波に乗って時代の寵児になる。しかし、一方で、フォークソングの担い手たち、団体があまりに閉鎖的で傲慢であることに苛立ち、新たな高みに向かっていく。本作が描くのはまさしくその時代だ。
 ニューヨークに来たディランは敬愛するウディ・ガスリーが入院している病院を訪れ、そこで図らずもピート・シーガーと出会う。彼の能力を見出したシーガーの導きによってプロとして歩み始める。ガスリーに影響を受けた歌唱法、卓抜した作曲の才能によって、大手のレコード会社がつき、すさまじい人気を得るに至るが、ディランの音楽家としての誇りが保守的なフォークの世界にとどまることを許さなかった。
 ディランはあえてエレキギターを導入し、伝統名高いニューポート・フォークソング・フェスティバルに出場。激しい怒号のなかで演奏を終える。これがフォークとの決別であり、本作が描くのはここまでの軌跡だ。
 ディラン自身はもちろん、関係者もジョーン・バエズをはじめ存命とあってはそれほどリアルな葛藤を描くわけにはいかないが、かなり攻めている方だと思う。アラン・ローマックスへの反感やバエズとの色恋、当時の音楽業界の風潮などが散りばめられている。脚本は『沈黙‐サイレンス』や『ギャング・オブ・ニューヨーク』で知られるジェイ・コックスが担当。さらに監督も引き受けたジェームズ・マンゴールドが名を連ねている。マンゴールドは『フォードvsフェラーリ』など実話に才を見せるが、本作では知名度の高いディランの曲を効果的に使用している。「追憶のハイウェイ」から「北国の少女」、「はげしい雨が降る」。「くよくよするなよ」に「時代は変る」、そして「ライク・ア・ローリング・ストーン」など、名曲の数々が惜しげもなく流れる仕掛けだ。
 嬉しいのは俳優たちの頑張りだ。ディランを演じるティモシー・シャラメは『君の名前で僕を呼んで』や『DUNE/デューン砂の惑星』などでアメリカ映画を背負う美男と呼ばれてきたが、本作で見事な歌唱力を披露してみせた。ディランに似せた鼻声で勝負するあたり絶品である。
 シャラメを盛り上げるべく、共演陣も素晴らしい。ピート・シーガー役のエドワード・ノートンもいかにもリベラルなフォークシンガーを適演。ディランの当時の恋人シルヴィは『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』のエル・ファニング、ジョーン・バエズには『トップガン マーヴェリック』のモニカ・バルバロが扮している。
 もうすぐ発表になるアカデミー賞では、作品、主演男優(シャラメ)、助演男優(ノートン)、助演女優(バルボラ)。監督、脚色、衣装デザイン、音響賞まで、8部門にノミネートされている。ピート・シーガー以外は未だ生きている歌手たちを演じてアカデミー候補になるのも珍しいのではないか。
 
 作品の随所に、ジョニー・キャッシュやマイク・ブルームフィールド、アル・クーパーといった熱い時代のスターたちが登場する楽しさ。当時夢中になって集めたレコードの記憶が蘇ってくる。あの当時はディランがノーベル賞に輝くなんて思ってもみなかった。それにしてもディランの曲が次々と頭の中を駆け巡る。稀代のソングライターであったことは疑いがない。
 レコード・ジャケットの写真通りのシチュエーションでディランが映し出される趣向も楽しい。本作を見ると、自分がディラン好きだったことを思い起こす。同時代を生きている人はとりわけお勧めしたい。