『生きる LIVING』は黒澤明の名作をノーベル文学賞作家カズオ・イシグロが脚色した沁みる英国版リメイク。

『生きる LIVING』
3月31日(金)より、TOHOシネマズ日比谷、TOHOシネマズ日本橋、TOHOシネマズ六本木ヒルズほか、全国ロードショー
配給:東宝
©Number 9 Films Living Limited
公式サイト:https://ikiru-living-movie.jp/

「日の名残り」や「わたしを離さないで」などで知られるノーベル賞作家カズオ・イシグロは、若い頃に見た黒澤明の1952年の名作『生きる』に大きな衝撃を受けたという。自分の創作にも影響があったとコメントする彼が、『生きる』のリメイクである本作に参加したのも頷ける。

 舞台を第2次大戦後のロンドンに移し、黒澤明、橋本忍と小國英雄が練り込んだ脚本を忠実に翻案。日本の“お役所仕事”を巧みに英国の官僚主義に移し替えてブラッシュアップ。昭和20年代の日本の混乱と喧騒のなかで立ち上がるヒューマニズムを、みごとロンドンの街に花開かせてみせた。さらにカズオ・イシグロはオリジナルにはない若い官吏の視点を加えることで自分らしさを打ち出す。日本の先達たちの脚本に誠実に手を入れて、英国らしさを醸し出そうとの試み。その成果は第95回アカデミー賞に脚色賞にノミネートされたことで報われた。

 彼自身、世代的にも映画という表現は大好きで、過去にはオリジナル脚本の『上海の伯爵夫人』を提供したことがある(この脚本は2005年にジェームズ・アイヴォリーが映画化した)。アカデミー賞授賞式に出席したカズオ・イシグロは、受賞こそならなかったが、まことに嬉しそうな表情をしていたのが印象的だった。これからも機会あるごとに、映画の脚本を手がけてもらいたいと心の底から願うばかりだ。

 さてこの脚本を得て、製作の『モナリザ』などで知られるスティーヴン・ウーリーと、『追想』のエリザベス・カールセンは、監督に南アフリカ出身のオリヴァー・ハーマナスを抜擢した。2009年に発表した第1作「Shirley Adams」で国際的な注目を獲得した新鋭で、演出力は高く評価されている。撮影は『帰らない日曜日』のジェイミー・D・ラムジー。プロダクション・デザインも同作のヘレン・スコットが起用されている。ハーマナスを軸に、時代考証がきっちりなされているのも注目だ。

 出演者も渋いが実力者揃いだ。黒澤版では志村喬が演じた主人公は『ラブ・アクチュアリー』から『ナイロビの蜂』、『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』までさまざまなキャラクターを印象的に演じるビル・ナイ。どんな役柄でもさりげなく自分の個性にしていく演技力、ひょうひょうとした容姿はまさにこの役柄にピッタリとハマる。第95回アカデミー主演男優賞にノミネートされたのも大いに頷ける。

 共演は『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』のエイミー・ルー・ウッド、『シカゴ7裁判』のアレックス・シャープ、さらに『スーヴェニア -私たちが愛した時間-』のトム・バークなどが居並ぶ。

 1953年。第二次世界大戦後、復興途上にあるロンドン。公務員のウィリアムズは常に同じ列車の同じ車両で通勤する。役所の市民課に勤める彼はひたすら事務処理に毎日を費やす。孤独で人生を空虚だと感じていた。

 ある日、医者から癌であることを宣告される。余命半年だ。彼は人生を見つめ直し始める。充実した人生を実感するため、仕事を放棄し、海辺のリゾートでバカ騒ぎをしてみる。

 ロンドンに戻った彼は、かつて部下だった娘に出会う。今の彼女はバイタリティに溢れていた。

 彼女に惹かれ、ふたりでささやかな時間を過ごすうちに、彼は新しい一歩を踏み出すことを決意する。誰からも顧みられることのなかった地域の母親たちからの陳情と真剣に向き合おうとした――。

 確かに公務員が幅を利かす官僚主義的な英国では、黒澤明が編み出したストーリーはピッタリとハマる。日本のお役所よりもはるかに形式主義の社会だからだ。だからこそカズオ・イシグロはリメイクに乗り出したのだろうし、オリジナル版のメッセージも際立って伝わってくる。

 生きるということに真剣に向き合って、人生を思いやる。オリジナル版は戦後の混乱が未だ収まらない時代ゆえに、人々がただ生きることに懸命だったが、カズオ・イシグロは現代から振り返った視点で、このストーリーを咀嚼している。人間というあやふやな存在にとって、ヒューマニズムとは何か。オリヴァー・ハーマナスは細やかな語り口で見る者に問いかけている。

 もちろん、オリジナル版であまりにも有名な、ブランコに乗って「ゴンドラの唄」を歌うシーンも、曲は違うがきっちりと再現されている。ブランコのビル・ナイの姿は見ていて胸に迫る。人間の移ろいやすさも含めて、胸に沁みる仕上がりである。

 本作をみて感動されたならば、ぜひ黒澤明の『生きる』を体験されたい。オリジナルの素晴らしさを得心されたい。