『あなたの顔の前に』は韓国の異才、ホン・サンスの個性をとことん堪能できる、愛おしい秀作。

6月24日(金)より、ヒューマントラストシネマ有楽町」、新宿シネマカリテほか、全国順次ロードショー
配給:ミモザフィルムズ
© 2021 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved
公式サイト:http://mimosafilms.com/hongsangsoo/

 1996年に初監督した『豚が井戸に落ちた日』から、ホン・サンスは韓国映画界の唯一無二の存在として注目されてきた。ほぼ年1本の割合で作品を発表し、そのいずれもが高い評価を受けている。カンヌ国際映画祭やベルリン国際映画祭でも認知度が高く、ある時期は“韓国のウディ・アレン”と呼ばれたこともある。細やかな機微を誇りつつ、鋭い描写で人間の業を浮き彫りにする。まことに際立った個性の持ち主である。

 作品づくりは独特だ。まず撮影の期日を決め、それからキャスティングを考える。それが決定した時点で作品の内容を考えるという。軸に据えた俳優から受けたイメージから展開が構築される。このことからも、ホン・サンスにとって、俳優とのコラボレーションがいかに大事かを表している。かつてイザベル・ユペールと組んだ作品もあったっけ。

『あなたの顔の前に』でホン・サンスが選んだのは、イ・ヘヨン。1960年代の韓国映画を代表する巨匠イ・マンヒの娘で、1980年代から映画、ステージ、テレビドラマで活躍したベテラン女優だ。ホン・サンス作品に出るのは初めてだったが、彼女の方はとにかく監督と仕事がしたくて快諾したという。その時点では内容が決まっていたわけではなかった。

 ホン・サンスは彼の母の葬儀に列席してくれたイ・ヘヨンと会話をしたことが心に残り、新作の主演女優に選んだのだという。初めて仕事をするときには、相手の作品歴よりも、まず人柄から受けたイメージを大切するホン・サンスは、亡くなった姉のことを思い出したという。そこから人生にまつわる事柄が浮かんできて映画のアイデアが生まれた。イ・ヘヨンは純粋に撮影を通して、「これが俳優」と言えそうな立ち位置を見つけたとコメントしている。まさに理想的な出会いによって、作品が昇華された好例といえるか。

 イ・ヘヨン以外の出演者は、ホン・サンス作品の常連で占められている。同時期に公開となる『イントロダクション』のチョ・ユニとシン・ソクホ、『それから』や、『逃げた女』のクォン・ヘヒョ、『逃げた女』や『はちどり』で知られるキム・セビョク、さらには『逃げた女』のソ・ヨンファとイ・ユンミが顔を見せているのも、ホン・サンスのファンには嬉しい限りだ。

 アメリカで暮らしていた元女優のサンオクが韓国に帰国し、疎遠だった妹ジョンオクの高層マンションに身を寄せる。

 折あるごとに、神に感謝する彼女に対して、妹は勝手に渡米してしまったサンオクの急な帰国を訝しみ、愚痴ると同時に近くのマンションの購入を進める。しかし彼女は「ただ会いたくなって帰ってきた」とほほ笑むばかり。外で食事をして、公園で写真を撮り、ゆったりと時間を過ごす。

 ジョンオクと別れて、かつて住んでいた家を訪れ、公演で穏やかな時間を過ごしたサンオクは居酒屋で映画監督と会う。今回の帰国の目的だったはずだが、彼女は思いもかけないことばを監督に語りかける――。

 冒頭より、映像はひたすらサンオクをとらえる。彼女の仕草、セリフのひとつひとつが見る者に彼女の置かれている状況を想起させる。ホン・サンスはヒロインの行動をじっくり紡ぐことによって、切なくも哀しい心情を浮き彫りする。それでいながら、随所にユーモアを忍ばせるのがホン・サンス風。居酒屋での映画監督とのやり取りなど、予想を超える展開をみせる。緩急を心得た演出に酔わされるばかりだ。

 ホン・サンスの巧みな語り口はひとりの女性の存在をくっきりと浮かび上がらせていくが、イ・ヘヨンの演技の素晴らしさも見逃せない。

 悲しい運命を甘受し、ただ一瞬一瞬を慈しむキャラクターを、さりげなく、しかしくっきりと映像に焼きつける。どこまでも自然体で、見る者の心に沁み入る演技。まこと監督と主演者のコラボレーションが圧倒的なアンサンブルを奏でている。共演陣もホン・サンス作品 にふさわしく、強い印象を残す。

『あなたの顔の前に』という題名は、居酒屋のサンオクの“告白”によって、その意味が明らかになる。近年のホン・サンス作品のなかでも、分かりやすくエモーショナルな仕上がり。これは、年齢を重ねた人がより胸に迫る。まずは必見である。

 もうひとつ、同劇場で同時期に公開されるホン・サンス作品、『イントロダクション』にも注目されたい。

 こちらは大胆な構成になる青春ストーリー。第71回ベルリン国際映画祭では銀熊賞(脚本賞)に輝いた。モノクロームの映像で、3章からなる構成のストーリーが繰り広げられる。

 進路も将来も定まらない、心優しき青年ヨンホが、第1章では父の営む韓方医院に呼びつけられるエピソードが綴られ、第2章ではベルリンで新生活をはじめた恋人を衝動的に追いかけたヨンホの姿が描かれる。第3章では俳優の道を挫折したヨンホに、母親がベテランの俳優を引き合わせる物語が展開する。

 それぞれの間を埋める時間軸が大胆に省略されているため、見る者は想像威力を掻き立てられる面白さがある。主演はシン・ソクホ。ホン・サンスの演出力が堪能できる。こちらもぜひ見て欲しい作品だ。