香港映画が資金力の面で中国本土の意向を汲まざるを得なくなってから、かつて持っていた香港ならではのオリジナリティやパワーが失われてきている。確かに製作費は潤沢にはなったが、派手な意匠のなかに絵に描いたような勧善懲悪ストーリーばかりが製作されるようになってしまった。毒のあるひねりの利いた展開や香港庶民に寄り添ったストーリーはめったに見られなくなった。
そうした状況にあって、本作はひさしぶりに登場した香港映画らしさに溢れた人間ドラマ。肢体不自由になった初老の男と、彼の世話をするための住み込みの家政婦となったフィリピン女性の絆を細やかに描いている。
脚本を書き、監督を務めたのはオリヴァー・チャン。彼女の母の介護体験や日常の出来事をもとに編み上げたストーリーで、「劇映画初作品プロジェクト」から資金援助を受けたことで撮影が可能になったという。チャンにとって初監督作ということになるが、撮影カメラマン、美術、衣装、プロダクション・マネージャーなどもそれぞれの部門で助手を務めていた若手ばかり。思いっきりフレッシュな顔ぶれでスタッフを固めた。もっとも製作を束ねるプロデューサーには『メイド・イン・ホンコン』や『三人の夫』などの監督として、長年、香港インディペンデント映画を牽引してきたフルーツ・チャンが担当。若いスタッフに数多くのアドバイスを与え、映像化を実現させた。
オリヴァー・チャンは主人公の初老の男に『ザ・ミッション 非情の掟』をはじめとするジョニー・トー作品や『インファナル・アフェア』3部作でお馴染みアンソニー・ウォンに出演を依頼したのだという。内容を聞いたウォンはギャラを返上してでも出演すると応えた。香港人気質を表した、ちょっといい話である。
共演は『メイド・イン・ホンコン』のサム・リーに『風の輝く朝に』のセシリア・イップ。香港映画の名作を飾った人々の競演も思い出深い。さらにヒロインを務めるクリセル・コンサンジは香港のディズニーランドのパフォーマーをはじめ、テレビドラマで知名度を上げたことが抜擢につながった。マニラ生まれで幼い頃から歌と演技で舞台に立った経験がある。本作の演技で香港電影監督会と第38回香港電影金像奨で最優秀新人賞を受賞している。
突然の事故で半身不随となったリョン・チョンウィンは、妻とは離婚、妹との仲も良好ではない。元同僚のファイとの会話と、海外の大学に通う一人息子の成長だけを楽しみに日々を生きていた。
そんな彼のもとに若いフィリピン人女性エヴリンが住み込みの家政婦としてやってくる。広東語が話せない彼女に、チョンウィンはイライラを募らせる。だが、誠実なエヴリンの仕事ぶりを見守るうち、片言の英語で意思の疎通を図るわずらわしさを超えて、お互いに情が芽生えていく。怖そうな顔をしていても気のいい善人のチョンウィンとひたむきに介護を続けるエヴリンの日々は穏やかに過ぎていく。
エヴリンの喜ぶことがしたいと考えたチョンウィンは、彼女が生活のために写真家になる夢を諦めたことを知り、彼女の夢を叶える手助けを考えはじめる――。
フィリピン女性を中心とする出稼ぎ外国人家政婦は、もはや香港社会を支える存在となっている。毎週日曜日に香港各所の広場に行くと、膨大な数のフィリピン女性が思い思いにグループをつくり、雑談と食事に興じている風景を目にする。それだけの数の外国人女性が香港で働いている事実に驚かされるが、香港人の合理主義の為せる業。安い賃金で家を任せて、家人は外で稼ぐ方を選ぶ傾向にあるからだ。本作でもエヴリンが休日にフィリピン女性仲間と広場で過ごすシーンがたびたび織り込まれる。それぞれが働いている先の愚痴や噂話をして日々のうさを晴らすわけだが、雇い主との関係が決して悪くないことが彼女らのことばから伺われる展開だ。
本作はフィリピン女性が劣悪な環境で仕事に従事しているといった社会派的なメッセージで貫かれているわけではない。もはや香港社会に溶け込んだ存在となっている外国人労働者を当たり前のものとしてとらえ、香港をともに生きる場所として描いている。肢体不自由になったチョンウィンはエヴリンの世話になったときから、希望のない人生が変わっていく。そのプロセスを紡ぎだす。オリヴァー・チャンは恋愛ではない、友情にも似た親密な情を映像にみなぎらせる。
監督は来日時に「社会的に弱い立場の人たちに対して、レッテルを貼らずに、一般の人と同じであることを促そうと思い、この映画を作った」とコメントしている。確かに、本作では、健常者も障害者も、外国人労働者も同じ世界を生きる当たり前の存在として描かれる。ストーリーもドラマチックな展開があるわけではない。生きていることのささやかな喜びや悲しみが映像に押さえられるだけだ。画面からにじみ出る心優しさに惹きこまれる。まこと、香港映画が培ってきたよき伝統がここに受け継がれている。
出演者ではもちろん、アンソニー・ウォンの演技に釘付けとなる。車椅子姿で動きが限定されるなか、表情とセリフまわしで感情を表現する。もともと濃い顔が柔和な表情になるとき、一気に善人のイメージに溢れる。アクションからシリアスまで、さまざまな作品を経験してきたが、本作の自然体の演技が群を抜いて素晴らしい。
一方のクリセル・コンサンジも誠実なキャラクターにふさわしい、あざとくなく楚々とした容姿が好もしい。どんな仕事であろうと努力を惜しまない姿が描きこまれ、必然的に見る者は彼女を応援したくなる仕掛け。オリヴァー・チャンの作劇術のうまさである。
下手をすると見逃してしまう小品だからこそ、あえて声を大にする。香港映画のよき伝統を継いだ若い才能による秀作。情の機微を味わいたいならお勧めである。