2014年のカンヌ国際映画祭で、強豪を押しのけてパルム・ドール(大賞)に輝いたトルコ・フランス・ドイツ合作の登場である。
3時間16分という長尺にもかかわらず、いささかもだれることなく画面のテンションを維持して、見る者を惹きつけて止まない。
監督のヌリ・ビルゲ・ジェイランは、人間というものをみすえ、愛憎、エゴ、プライドを浮かび上がらせる。ストーリーは西洋とイスラム世界の違いのみならず、男女、老いと若さなどの要素を対峙させることによって、文化や価値観の異なる観客にも普遍的な感動に誘う。受賞も頷ける大作である。
ジェイランの作品はこれが初めての劇場公開となるが、日本とは無縁の存在ではない。長編第1作となる『カサバ―町』は1998年のベルリン国際映画祭でカリガリ映画賞を受賞したが、東京国際映画祭でも東京シルバー賞に輝いている。続く『五月の雲』は日本で開催された地中海映画祭で上映。3作目の『冬の街』はぴあフィルムフェスティバル2006で上映された。
さらに4作目の『うつろいの季節(とき)』はSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2007のコンペティション部門に出品され、第5弾の『スリー・モンキーズ』は東京国際映画祭2008で上映された。第6作の『昔々、アナトリアで』はSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2011で上映されるなど、いずれも日本のスクリーンを飾っている。聞けば、専門チャンネルのシネフィル・イマジカ(今のBSイマジカ)で『カサバ―町』、『冬の街』、『うつろいの季節(とき)』を放映したという。
決して作品数は多くないが、多くの映画祭で賛辞を集めている。とりわけカンヌでは『冬の街』がグランプリと主演男優賞、『うつろいの季節(とき)』がFIPRECI国際批評家連盟賞、『スリー・モンキーズ』が監督賞、『昔々、アナトリアで』がグランプリをそれぞれ獲得するなど高い評価を受けてきた。本作のパルム・ドールはまさに念願の受賞といっていいだろう。日本でも映画祭では紹介されていながら、一般劇場公開されなかった。なじみのないトルコ作品ということで敬遠されたのか。ともあれ、本作の受賞を受けて、『スリー・モンキーズ』と『昔々、アナトリアで』がDVD発売されたのは喜ばしい限りだ。
本作は日本でも観光地として知られているカッパドキアを舞台にする。資産家だった父の家作を継いでホテルを経営している元舞台俳優と美しい年下の妻、俳優の妹、そして家作の店子の聖職者、その兄家族が主なる出演者となる。交わされる刃のような会話、そうした人間たちを厳しく見下ろすカッパドキアの圧巻の大自然。カメラマンでもあるというジェイランの映像感性によって切り取られた画面にぐいぐいと引っ張られる。しかも語り口は正攻法で知性に富み、決してぶれない。
作品をみていくうちに、ここに登場するキャラクターのいずれかに自分をみるような気分に陥っていく。チェーホフの3つの短編にインスパイアされて生み出したという脚本は、監督でもある妻エブルと共同で書き上げている。
出演はトルコを代表する国民的俳優ハルク・ビルギネルにアメリカ作品『ザ・インターネット2』にも出演したトルコの人気女優デメット・アクバァとメリサ・ソゼン、実力派のネジャット・イシレルなど、日本では馴染みはないが存在感豊かな俳優が選りすぐられている。
舞台俳優だったアイドゥンは、莫大な父の資産を継いでホテル・オセロのオーナーになり、数々の家作から上がるお金で悠々自適の生活をしている。実務は使用人や弁護士に任せ、地元の新聞にエッセイを連載している半引退暮らし。
だが、使用人とともに車で家作をめぐるうち、突然、子供に石を投げつけられる。少年は家賃未納で家財道具を押さえたアスマイル一家の息子だった。アイドゥンの知らぬうちに使用人が行なったことだが、彼は誇り高い家族の恨みを買っていた。聖職者の家族の弟のとりなしで場を収めたが、彼の心は晴れない。
ホテルに戻れば、美しい年下の妻ニハルは彼の存在を無視しきって慈善活動を行なっているし、出戻ってきた妹ネジラは毒のあることばでアイドゥンをこき下ろし、ニハルを嘲笑する。表面的には裕福にみえるアイドゥンの生活は、実はことばの応酬で愛憎と葛藤を発散する日々だった。
アイドゥンは妻の慈善活動に口を出したため、形骸化した夫婦関係にさらに亀裂を生じさせ、妻は妻でアイドゥンのもっとも嫌がることしようとして予期せぬ事態を引き起こす。ここに至ってそれぞれが自分を見つめなおすことになる――。
登場するキャラクターはひとりとして欠点のない人間はいない。たとえ自分に落ち度がないと思っていても、悪くいわれる陰には悪くいわれる理由が(本人は不本意に思われることでも)存在するものだ。まさしく主人公のアイドゥンは自分には悪意がないにもかかわらず憎まれると嘆く。しかし、ストーリーの進行とともに明らかになるのは、彼の無意識の傲慢さだ。善人を装っているが思いやりもないし、唯我独尊。次第に知性をまとったエゴがむき出しになる。
慈善に精出す妻のニハルも同様だ。夫に誠意がないと攻撃しながらも、自分も傲慢不遜。貧しい人間に対する配慮など根本的に皆無だ。妹のネジラは毒のあることばで兄に議論を吹っ掛けるが、自分の傷に触れられると相手を攻撃することで現実をかわそうとする。
貧しいイスマイル一家も決して欠点がないわけではない。イスマイルは生活力のない酒飲みでプライドが唯一の武器。その弟の聖職者は偽善者だ。
このように欠点だらけの登場人物が丁々発止と戦いあうのだが、一方で彼ら全員に共感せざるを得ない状況もみえてくる。人間同士が本当の意味で理解しあうことなど稀なこと。いかに相手に折り合いをつけていくかが重要なのだが、ここに登場する人物は傷つけあうことで互いに理解させようとする。イングマール・ベルイマンをほうふつとさせる、息詰まる会話から浮かび上がってくるのは、愛すること、分かりあうことの困難。人が生きていくことの哀しみが画面からにじみ出てくる。彼らを見つめるうちに、他人事とは思えなくなるリアリティが胸に迫ってくる。
ジェイランの諦観を秘めた眼差しが濃密な物語世界にペーソスを生じさせている。決して難解ではないが、奥行きのあるセリフに魅せられ、最後の最後まで画面に釘付けとなる。出演者の熱演も映画をさらに高めている。
本作の公開を記念して、7月8日にはジェイラン映画祭オープニングイベントと題し、彼の監督デビュー作の短編『繭』と『五月の雲』が講演つきで上映。9月29日より10月3日までアテネ・フランセ文化センターで、“ヌリ・ビルゲ・ジェイラン映画祭2015”と銘打って『カサバ―町』、『冬の街』、『うつろいの季節(とき)』、『スリー・モンキーズ』、『昔々、アナトリアで』の5作品が上映される。
さらに『昔々、アナトリアで』が7月11日より1週間新宿シネマカリテで上映される。本作を存分に堪能した上で、これを機会にジェイランの映像世界のすべてを鑑賞するのも一興だ。