第87回アカデミー賞で9部門にノミネート、作品、監督、脚本、撮影の4部門に輝いた話題作の登場である。ゴールデン・グローブ賞で主演男優賞、脚本賞を獲得するなど、数々の賞を手中に収めていたので、アカデミーを賑わすことは予想できたが、俳優部門を除くメイン賞を独占する結果になるとは思わなかった。
作品のクオリティを考えれば、当然のことながら、監督賞は第86回でアルフォンソ・キュアロンが手にしたので、まさか2年続けてメキシコ出身の監督が選ばれるとは思わなかったからだ。それだけ、演出の力量が評価されたということになる。
実際、脚本・製作も務めたアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥはすばらしい演出を披露している。日本では、東京国際映画祭で東京グランプリと最優秀監督賞に輝いた『アモーレス・ペロス』(2000)の頃から注目され(カンヌ国際映画祭批評家週間グランプリも獲得している)、オムニバスの『11′09″01/セプテンバー11(イレブン)』を挟んで『21グラム』、役所広司と菊池凛子も出演した豪華俳優陣のアンサンブル・ドラマ『バベル』で大きな話題となった(カンヌ国際映画祭監督賞受賞)。以降は『それぞれのシネマ~カンヌ国際映画祭60回記念製作映画~』の一編と『BIUTIFUL ビューティフル』を発表している。製作と製作総指揮を引き受けた作品が3本あるにせよ、イニャリトゥはむしろ寡作の範疇に入るか。それだけ1本の作品をじっくりと練りこんでいる証明だ。
本作は前作『BIUTIFUL ビューティフル』公開から4年を経て発表された。これまで濃密な人間ドラマ、シリアスに人間の葛藤を描いてきた監督にとっては、初のコメディ作品である。40歳を過ぎたら自分が怖いと思うプロジェクトを行なうと決心していたことが、本作に挑んだ動機とイニャリトゥはコメントしている。
アメリカの俳優にとっては、ニューヨークのブロードウェイの舞台で成功するのはある種の夢。とりわけ映画で有名になった俳優は、演劇に対してコンプレックスを抱きがちで、だからこそブロードウェイに憧れる。イニャリトゥは、こうした映画俳優の思いを軸に、シニカルな人間ドラマを構築している。
かつてスーパーヒーロー映画でスターダムにのし上がった俳優がなんとかブロードウェイで成功しようともがく。その顛末を本作は圧倒的な映像で紡いでいる。
脚本は『BIUTIFUL ビューティフル』で組んだアルゼンチン出身のふたり、ニコラス・ヒアコボーネとアルマンド・ボーに加えて、ニューヨークの演劇界で活動するアレクサンダー・ディネラリスjr.を参加させて、イニャリトゥが徹底的に磨き上げた。人間の機微をついた、ブラックでペーソスに満ちたストーリーに仕上げてみせる。
撮影はテレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』やアルフォンソ・キュアロンの『ゼロ・グラビティ』などで知られる、メキシコ出身のエマニュエル・ルベッキ。本作では、ステディカムや手持ちカメラを駆使して、オープニングからラストまで1カットで撮影したと見紛うほどのカメラワークを披露している。『ゼロ・グラビティ』に続いてアカデミー撮影に輝いたのも頷けるところだ。
しかも、キャスティングがうまい。かつてティム・バートン版『バットマン』で大人気となったマイケル・キートンを主人公に起用。役柄とキートン自身を微妙にシンクロさせたことで、いっそうのリアリティを生じさせている。鼻持ちならないブロードウェイ俳優にエドワード・ノートンを据えたのもいいし、『アメイジング・スパイダーマン』のエマ・ストーンに『21グラム』のナオミ・ワッツも顔を出す。他に『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』のザック・ガリフィーナキスもいい味を披露している。
かつてスーパーヒーロー映画『バードマン』シリーズで世界的なスターとなったリーガンだったが、最近は公私ともに落ち込み気味。再起をかけて、レイモンド・カーヴァーの小説「愛について語るときに我々の語ること」を自ら脚色し、演出・主演を兼ねてブロードウェイにかけようとする。
だが、共演者の一人がけがを負い、実力派ながら性格の悪いマイクが代役に立つことになったことから、リーガンのストレスは溜まる一方となる。マイクはリーガンを下にみてダメだしを連発。おまけにリーガンは、薬物中毒から回復した娘のサムを付き人にしたのだが、関係は一向に好転しない。マイクとサムに追い込まれ、ついにはリーガンの“超自己”のバードマンまでが現れて、彼に公演を止めろと囁きかけてくる。
プレビュー公演を失敗し、初日前夜には演劇記者に最悪の批評をすると宣告されてしまったリーガン。もはやバードマンはそこかしこに姿を現すようになっていた。
そして初日の晩、思わぬ展開がリーガンを待ち受けていた――。
イニャリトゥの語り口はよどみがなく、主人公のリーガンが追い詰められていく過程をきびきびと浮かび上がらせていく。なによりカーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」を芝居の演目に持ち出してきたあたり、いかにも知性に憧れる映画人が考えそうな発想でニヤリとさせられる。アメリカ映画界を観察してきたイニャリトゥらしいが、マイクや演劇記者などに代表されるブロードウェイ人種の描き方も相当に底意地が悪い。映画人に対して羨望しながらも下にみる、エリート主義に凝り固まっていながら浅薄という、鼻持ちならないキャラクターに設定してあるのだ。
バードマンのイメージから脱しようともがくリーガンはよほど人間的だ。俳優として認められたいという気持ちに突き動かされて挑んだ企画で、かえって自分の孤独が浮き彫りにされてしまう。いつのまにか「愛について語るときに我々の語ること」のモチーフが自分自身の思いと同化していくのだ。彼が精神的に追い詰められるにつれて、登場の回数が増えるバードマンは幻なのか、それとも……。
リーガンを苦しめるマイクとサムは孤独を共有することで近づき、リーガンは思いもよらない破目に陥る。世界は不条理で欠点だらけかもしれないが、折り合いをつけて共存していかなければならない。決して能天気な幕切れではないが、思わず拍手を送りたくなるオチのつけ方である。
ルベッキの撮影とともにイニャリトゥは、ブロードウェイの舞台の裏側に入り込み、演じられる作品以上の葛藤を抱いた俳優たちの姿を克明に紡いでいく。その一方で、ニューヨークに登場するバードマンの雄姿をスペクタクルとして映像化したあたりが心憎い。この緩急のつけ方がアカデミー会員にアピールした所以だろう。
俳優では、なんといってもキートンだろう。本作では耐えるキャラクターとなるが、彼自身の軌跡と重なり、画面に登場するだけでペーソスがにじみ出てくる。最近は脇役に甘んじてきたが、本作を機に再び注目されることを祈りたい。
ノートンもマイクというとことん自己中心的な俳優を巧みに表現しているし、サム役のストーンもスポイルされた娘の孤独感をきっちりと演じている。
イニャリトゥの演出力と俳優たちの個性に貫かれた秀作。2015年のベストテンに入ることは間違いない秀作である。