
10月10日(金)より、TOHOシネマズ シャンテ、Bunkamura ル・シネマ渋谷宮下ほか全国ロードショー
配給:ミモザフィルムズ
©2024 – Uma Pedra No Sapato – Vivo film – Shellac Sud – Cinema Defacto
公式サイト:https://mimosafilms.com/grandtour/
映画の魅力の一つに、見る者を異世界に誘う「魔力」が挙げられる。映画館の暗闇のなかで、映像が瞬時に時空を超えてさまざまな物語が紡がれる。言い古された表現だけれど、映画はタイムマシンといっても過言ではない。歴史を遡り、未来に向かうこともできる。映像の送り手のイマジネーションに身を委ねる快楽が映画という表現にはある。
本作はその極めつけといってもいい。ポルトガルの鬼才ミゲル・ゴメスが生み出した、美しくイマジネーションに満ちた映像にひたすら惹きこまれ、翻弄される。
2012年の『熱波』や『アラビアン・ナイト 第1部 休息のない人々』(2015)で世界的な注目を集めたゴメスが、サマセット・モームの「パーラーの紳士」からインスピレーションを得て生み出した作品。グランドツアーとは20世紀初頭に、イギリス領インドから中国、日本などの極東に向かう旅を指した言葉で、ゴメス自身がこれを体験するなど入念なリサーチの後に脚本にまとめ上げた。
しかし、コロナ禍に遭遇し撮影は中断。紆余曲折を経て4年の歳月を費やして完成した経緯がある。
1918年、英国の公務員エドワードは婚約者モリーとの結婚を控えていたが、結婚することに迷いがあり、モリーの到着直前に衝動的にラングーンからシンガポール行きの船に飛び乗ってしまう。
だが、シンガポールではモリーがやってくるとの電報を受け取り、バンコクからサイゴン(現ホーチミン市)、大阪、上海、重慶へと流れていく。
一方、モリーも婚約者の後を追って、シンガポールを皮切りにバンコク、サイゴン(現ホーチミン市)に向かおうとするが途中、身体が不調になる。それでも上海でエドワードを見つけようとするが、次第に妖しの世界に入り込んでいく――。
時代設定は1918年だが、挿入されるフッテージは記録映像ではなく、ゴメス自身が2020年以降に撮影したもの。つまり、時代設定は20世紀初頭ながら、フッテージは現在の映像が散りばめられる。過去と現在、ドラマとドキュメンタリーが融合し、ゴメス世界としか形容できない映像に仕上がる。
しかもストーリー自体は決して難解ではなく、ユーモアを湛えた追っかけの様相。見る者はユニークな展開にただ魅入られるばかりとなる。過去と現在が融合した映像を見せられるうちに幻想世界に誘われ、ゴメスの術中にはまる感じである。
登場人物が訪れる、コロニアリズムに満ちた地域の現在が挿入されることで、アジアの歴史の変遷を思わせる(大阪の馴染み深い風景も織り込まれる)。モノクロームとカラーがつなぎ合わされ独自の世界が構築される仕掛けだ。
おまけに挿入される音楽も多彩だ。ヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」からはじまって、ボビー・ダーリンの「ビヨンド・ザ・シー」、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」。さらにはミャンマーの伝統音楽から上海の古いジャズバンドの曲まで、映し出される映像とともに幻想的な感覚に惹きこまれる。
出演者はポルトガル・リスボン生まれのゴンザロ・ワディントンがエドワードを演じ、クリスティーナ・アルファイアテがモリーを演じる。ふたりともゴメス作品を体験済みとあって気心は知られているのだろう。かつてのハリウッド・コメディの気分が横溢した演じっぷりである。『青いパパイヤの香り』のトラン・アン・ユンの娘ラン=ケー・トランが顔を出しているのも注目したい。
映像と音楽、ミゲル・ゴメスの術に魅惑されて好い心地満点のひととき。第77回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で監督賞に輝いたのも頷ける仕上がりである。