この3月に開催された第96回アカデミー賞において、日本では『ゴジラ−1』の特殊効果賞受賞、『君たちはどう生きるか』の長編アニメーション賞受賞が話題となったが、本国アメリカでは最多13部門にノミネートされた本作が興味の中心。何部門を獲得するかに注目が集まっていた。結果として、作品、監督、主演男優、助演男優、撮影、編集、作曲の7部門を独占したのだから、ほぼ一人勝ちの様相を呈した感じだ。
日本が被爆国であるという理由で公開が危ぶまれていたこともあったが、時間を経たとしても、公開をなにより喜びたい。力のこもった2023年屈指の仕上がりである。
本作は、マンハッタン計画を主導した物理学者J・ロバート・オッペンハイマーに焦点を当てる。彼が核兵器に至るきっかけをつくったことで、世界の在り方がガラリと変わってしまった。その軌跡を最高解像度IMAX撮影でスペクタクルに再現した作品だ。
監督のクリストファー・ノーランは、バットマンの『ダークナイト』をはじめとする三部作で世界的な認知度を得たが、本人はヒットメーカーの評価に留まることを潔しとせず、人間の意識下に入り込むSF『インセプション』やハードSFの『インターステラー』、さらに史実を陸・海・空の視点で再現した『ダンケルク』など、意欲的な題材にチャレンジしていった。本作はその頂点とでも呼びたくなる。
激しいアクションとはまったく無縁の理論物理学者の半生を大画面いっぱいに描き出す試み。確かにロスアラモスの原爆実験がクライマックスにはなるが、そこまでは実験を遂行するまでの人間関係、彼自身の心の裡、計画の紆余曲折が綴られるに過ぎない。しかも時制が交錯する構成。画面に惹きこまれるうちに、3時間の上映時間があっという間に経ってしまう。まこと野心作といいたくなる仕上がりだ。
カイ・バード、マーティン・J・シャーウィンのピューリッツァー受賞ノンフィクションに着想を得て、ノーラン自身が脚本を書き上げた。
まず冒頭に“プロメテウスの炎”の逸話を持ち出し、好むと好まざるとに関わらず、核が世界を転換させてしまった事実を明快に伝える。この時点でノーランの立脚点は明らかにされる。
オッペンハイマーは実験が嫌いで理論物理学者の道に進み、神経質で繊細。学業一筋の一方で、恋に対して奔放な側面をみせる。アメリカの知識層に拡大した共産党傾倒に対しても入党までには至らないまま、学業の面で名声をあげていく。
アメリカはナチスに先駆けようと原子爆弾開発の極秘プロジェクトを立ち上げる。オッペンハイマーを軸に全米中の科学者を選りすぐって、「ナチスを追い越せ」を旗印に計画を推進していく。ついに実験成功のおりにはナチスは降伏していたが、日本は未だ闘い続けていた――。
ノーランは人間オッペンハイマーの弱さと人間性を浮かび上がらせる。それとともに生み出してしまったものの恐ろしさに震撼し、戦後は核軍拡に反対。共産主義者の疑いをかけられ、名声を失墜する姿。
彼の軌跡から浮かび上がってくるのは、科学者の理想主義と現実のギャップである。ここから今も核の影響下にあることを、ノーランは大画面でみごとに証明してみせた。ノーランの円熟ぶりを満喫させてくれる仕上がりである。
出演者はオッペンハイマー役のキリアン・マーフィーの圧倒的な成りきりぶりに脱帽したくなる。ノーラン作品にはお馴染みのアイルランド出身俳優だが、ここではまさに圧巻の演技ぶりだ。受賞も当然である。
さらにノーランの意図に賛同して多くの俳優たちが一堂に介している。エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr、フローレンス・ビュー、ケネス・ブラナーなど、凄まじく豪華なキャスティングとなっている。なかではダウニー・Jrの仇役ぶりがうまい。小者なのにプライドの高いキャラクターをみごとに演じる。これまた受賞も頷ける。
人間ドラマとしてあくまでも映像的であろうとした作品。ノーランとチームを組むことの多いオランダのホイテ・ヴァン・ホイテマの撮影はノーランの意を汲んで素晴らしい仕事ぶりを披露してくれる。
イギリス出身のノーランの知性が、人間の至らなさ、科学者のモラルにまで踏み込んでいる。上映時間は長いが大画面での一見をお勧めしたい。