コロナ禍によって、生活が大きく変わってしまった。人と群れることは禁止となったら、映画館で多くの観客とともに映画を見る楽しみは奪われたようなものだ。
さまざまな観客とともにスクリーンをみつめ、画面から放たれる感情に身を委ねる楽しさ。全員で同じ映像をみつめている、共同体意識が生まれる。
映画の終了とともに、老若男女が満員の映画館から余韻に浸りながら、三々五々、出てくる。これから見る者は彼らの表情から、否が応でも期待を高める。それこそが映画体験の醍醐味だった。20世紀半ばのそうした映画の黄金時代を知る身としては、何とも寂しい限りだ。
現在、アメリカの映画スタジオは制限の多い映画館から配信にシフトしようとしている。ビジネスとして考えたときに、配信の方が着実に、安全に収入が見込めるからだ。ウィズ・コロナの時代になると、映画館の存続はさらに厳しくなるといわざるを得ない。
本作はコロナ禍における映画館の姿をユーモアとともにリアルに浮かび上がらせる。映画を愛する者の思いのこもったコメディとなっている。映画好きならニヤリとするギャグがさらりと散りばめられているが、決して甘ったるくなく、リアルな現実を踏まえながら、それでも映画館を称える姿勢が好もしい。
焦点を当てたのは福島県南相馬に実在する映画館、朝日座だ。今は常時映画館として稼働していないというが、昔ながらの雰囲気を持つ映画館。かつてはどんな街にもこうした映画館がいくつもあったものだ。
しかも場所が南相馬。東日本大震災とともに、原発事故の影響をもろに受けて、風評被害に遭った地域だ。ここを舞台に据えることで、コロナ禍で客足が途絶えた映画館、映画ファンの悲しみと、未だに原発事故の風評から逃れえない苦しみを抱いた福島の人々の思いを具現化できると、制作に参画した福島中央テレビは考えたに違いない。
なによりこのプロジェクトは、その思いを汲み取りながら独自のオフビートな世界を貫くタナダユキが監督したことで成功を収めた。福島の風評被害やコロナ禍の現状をしっかりと描きながら、決して悲壮にならない。登場人物にシリアスな現状を背負わせながらも、ありのまま、自然に生きていくことの哀歓をさらりと綴っている。聞けば、この題材で劇場用映画とドラマを同時進行で製作したのだとか。本作を見るとドラマが見たくなること必定である。
100年近い歴史をもつ朝日座も、シネマコンプレックスの台頭とコロナ禍が追い打ちをかけ、支配人は閉館を決意する。この場所を潰して健康ランドにしたいとの声がかかったのだ。健康ランドにすれば雇用も増えるし、人も集まる。南相馬のためになることは支配人にも理解できた。
決心して、映写室に残っていたフィルムを燃やそうとした瞬間、ひとりの女性が邪魔をした。茂木莉子と名乗る彼女は朝日座の復活を宣言。熱意で押し切り、積極的に改革計画を実行に移し、次第に支配人もその気になっていくが、事は彼女が目論むほど能天気には進まなかった――。
ストーリーは茂木莉子の現在の奮闘と、朝日座に情熱を傾けている理由が紡がれる。父親が除染作業員の送迎を率先して行なったことで金を儲けたと、高校時代にバッシングを受けた彼女を救ってくれたのは、無類の映画好きで男の趣味が最悪な女性教師だった。映画はふたりの奇妙な師弟関係の顛末をユーモラスに浮かび上がらせる。
登場人物はそれぞれ抱えているものは重いが、生きていることの喜びを味わう気持ちは持ち合わせている。映画館復興は映画ファンには喜ばしいが、決して先行きが明るいものではない。健康ランドにした方がより多くの人が憩えるし、雇用につながるという意見は、映画ファンにも説得力を持つ。
だが、残せるものなら残したいという駄々っ子に近い思いが胸に沸き上がってくる。何でも経済で片づけようとする風潮に対して異を唱えたい。文化は無駄なものに宿る。タナダユキは自らの脚本をもとに、映画館に対する思いをさらりと浮き彫りにしている。軽快な語り口のもと、1975年の瀬川昌治作品『喜劇 女の泣きどころ』や1957年の増村保造作品『青空娘』といった異色作の一コマを挿入するあたりのセンスがこの監督らしい。もちろん、D・W・グリフィスの1920年作品『東への道』も登場する。
映画館の支配人が名作・話題作を集めているのにセンスが悪く、2本立ての組み合わせが最悪という設定も思わずニヤリとさせられる。名画座全盛のころにそんな組み合わせも確かにあった。
出演者では茂木莉子に扮した高畑充希が自然体の演技で精彩を放つ。高校生から大人になっても違和感がないのが魅力だ。映画館の支配人役に柳家喬太郎、女性教師に大久保佳代子という異色の顔合わせにしたのも成功の要因。それぞれ交わす会話の自然体の雰囲気が作品の個性になっている。
さりげなく映画館というものの魅力を称えた仕上がり。これから映画館はどうなっていくのだろうと心配になりながら、一見をお勧めしたい。