『象は静かに座っている』のフー・ボーや『凱里ブルース』のビー・ガンをはじめ、近年、中国映画の若手監督たちの台頭が目覚しい。いずれも監督第1作が大きな注目を集め、絶賛されている。
残念ながら、フー・ボーはこれが遺作となってしまったが、ビー・ガンは第2作の『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』で大胆にも3Dのワンシークエンスショットを採用し見る者に新鮮な刺激を与えてくれた。
本作が長編監督デビューとなるグー・シャオガンも注目すべき若手の筆頭にいる。2年の歳月をかけて完成した本作は、ただちに2019年カンヌ国際映画祭批評家週間のクロージング作品に選ばれ、各国の映画祭が挙って上映した。東京フィルメックスでは審査員特別賞に選ばれている。
「驚嘆の傑作」という絶賛のコピーがつけられるほど各国で評判になったが、グー・シャオガンにとっては無欲の勝利ともいえる。
そもそもは映画の脚本を書くために、この監督が故郷の富陽に戻ったところから始まる。新たに政令都市になり、2022年にはアジア競技大会の舞台になるため、静かで質素な街が激しく変容しているのを目の当たりにする。グー・シャオガンはその変化の潮流に漂う市井の人々の作品を作りたいと思ったのだという。
岩井俊二の作品に感動し、『アバター』に驚嘆して映画づくりを志したとコメントするグー・シャオガンは1988年生まれの32歳。ドキュメンタリーを学んだ彼は、脚本を書くにあたり、自分の家族のことを念頭においた。激動する都市に暮らす彼らがどのように翻弄されていったかを考え、山水画の絵巻「富春山居図」にインスピレーションを得て、脚本に落とし込んでいったのだという。
映画は大家族のグー家に焦点を当てる。山水画のごとく、四季の移ろいを大家族の人々の軌跡を通じて浮かび上がらせる展開だ。
物語のはじまりはグー家の家長である母の誕生日の祝宴から幕を開ける。長男が営むレストランに、漁師の次男、ダウン症の息子を男手ひとつで育てている借金まみれの三男、激動する街の取り壊しを行なっている四男と家族たちが一堂に介する。
だが、祝宴の最中に母が発作を起こした。脳卒中だった。回復はしたものの、認知症が進み、介護が必要になる。長男が引き取るが、店の経営も大変だし、長男の妻は娘が縁談に目もくれないことに苛立ち、露骨に不機嫌さを表す。
長男の娘は裕福ではない教師に恋をしていて、親の選んだ相手に色よい返事をしない。大家族のひとりひとりの行動が波紋をもたらし、やがて大きなうねりとなって家族を襲う。金に困った三男はイカサマ賭博に走り、次男は開発の立ち退き料を手に入れて息子の新居に充てようと考えている。
それぞれの思惑、行動をはらみながら、季節は夏、秋、冬、春と巡っていく。風光明媚な場所のなかで、人々は喜怒哀歓のドラマを紡いでいく――。
始まりはいささか訥々とした滑り出しながら、進行するにしたがってグイグイと見る者を惹きこんでいく。グー・シャオガンの熱意の賜物といいたくなる。まさしく製作期間2年の歳月がこの監督の技量を進化させている。
なかでも、長男の娘と教師のデートのシーンに用意された、息を呑むほど凄い横移動スクロールの10分に及ぶロングテイク、あるいはラストの壮大なロングショットなどは、まさに恐れを知らぬ大胆な試み。この演出が市井の人々の軌跡を過不足なく綴ったクラシカルな語りに新鮮な刺激をもたらしている。激動の中国に生きる、大家族の営みが、まさに活き活きとした絵巻としてスクリーンに広がる。
大胆な試みはキャスティングにも及んでいる。メインの四兄弟をはじめその妻たちもグー・シャオガンの実の親戚なのだ。プロの俳優はほんの一握り。この試みは、ひとつには製作費を節約するためだったというが、富陽で暮らす人々の情感をリアルに映像に焼きつけるために必要だったとコメントしている。確かに、最初は素人くさいイメージの演じ手たちも、映画の進行とともにみごとなほどの存在感を画面にもたらすようになる。激動する街とともに呼吸している、生きている感じなのだ。
エドワード・ヤンやホウ・シャオシェンといった台湾の匠と比較されているグー・シャオガンは、本格的に映画に入れ込んだのは高校三年生になってからというが、以降、世界各国の個性豊かな匠たちの作品に触れて、存分に吸収してきた。その成果が本作ということになる。
まこと新しい才能の開花。次にどんな作品を生み出すか、興味津々。次回作がたまらなく楽しみになる。これは一見に値する。