『天国にちがいない』は現在の世界を風刺の効いたユーモアで問いかけた、極私的コメディ。

『天国にちがいない』
1月29日(金)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国ロードショー
配給:アルバトロス・フィルム、クロックワークス
©)2019 RECTANGLE PRODUCTIONS – PALLAS FILM – POSSIBLES MEDIA II – ZEYNOFILM – ZDF – TURKISH RADIO TELEVISION CORPORATION
公式サイト:https://tengoku-chigainai.com/

 世界には動向が気になる、個性際立つ映画監督が何人もいるが、本作の監督エリア・スレイマンは間違いなくその一人だ。

 スレイマンは生まれたのはパレスチナながら、イスラエルが建国宣言をした後だったので、必然的に“パレスチナ系イスラエル人”というラベルを張られることになった。

 この出自から、パレスチナ解放を願う声高の映画監督を想像されるかもしれないが、そうした思いを抱いているにせよ、スレイマンのアプローチは違う。

 自らカメラ前に立って、ひょうひょうとパレスチナ問題を題材にしてユーモアと風刺で作品を彩る。往年のコメディアン、バスター・キートンのように表情を変えずに、目の前で起こる出来事の数々を見据える。ある意味では、彼の作品は細かいエピソードの集積といいたくなる。琴線に触れるエピソードもあれば、そうでないものもある、肝心なのはスレイマン自身が観客の側に立って、繰り広げられる出来事の証人になっていることだ。

 この手法で長編第1作『消えゆくものたちの年代記』(1996)はヴェネチア国際映画祭最優秀初長編賞を受賞。長編第2作『D.I』(2002)もカンヌ国際映画祭で審査員賞に輝いている。さらに2009年、長編第3作『時の彼方へ』をカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品してから永い空白期間に入った。

 本作は11年の期間を置いて発表され、カンヌ国際映画祭で特別賞と国際映画批評家連盟賞に輝いている。映像が世界をくっきりと捉えるなか、スレイマンならではのエピソードが綴られていく。ここでは故郷のナザレからパリ、ニューヨークと舞台が移るが、どこに行ってもスレイマン世界が構築されている。ほとんど無言のまま(本作では2語だけ発言する)、世界をみつめる彼の眼差しは軽やかななかに鋭さを秘めている。エレガントとさえ言いたくなる彼の演出が語りかけるのは、当然ながらパレスチナ問題に帰結する。

 本作では英語、フランス語、アラブ語、スペイン語、ヘブライ語が飛び交う世界を、もの言わぬスレイマンが旅し、彼の見聞を通して混乱する世界と愛すべき人間たちの姿を浮かび上がらせる。

 映画は大きく3つの部分から成り立っている。自宅のあるイエス・キリストの生地ナザレとパリ、そしてニューヨークである。

 ナザレの自宅で静かに日々を送っているスレイマンだが、庭の木からレモンをもぎとり、悪びれない闖入者がいる。街に出ると物騒な男たちの集団が闊歩しているし、レストランではクレームをつける客と賢いウェイターとのやりとりが待ち受けている。

 ある老人は鷲から蛇を助けて恩返しをしてもらった話を聞き、雨の日に小便が止まらなくなった他人を傘に入れてやる。

 何も起こらないようで、日々何かが起こっている故郷を後にして、彼は機上の人となる。

 パリでもスレイマンはおかしなことばかりに出会う。カフェテラスに座るとお洒落なパリジャンたちに圧倒され、ホテルの部屋の窓からは警官から逃げ回る男を目撃する。ヴァンドーム広場では戦車に遭遇し、日本人のカップルに話しかけられ、地下鉄では攻撃的な兄ちゃんに凄まれる。

 パリ旅行の目的だった、新作の売り込みも“パレスチナ色が弱い”と却下されてしまう。

 ニューヨークではタクシーの運転手から故郷を聞かれ、「ナザレ、パレスチナ人だ」と応えると、初めて乗せたと喜ばれタクシー代をタダにしてもらう。だがこの街は誰もが銃を持っていた。なかにはバズーカ砲を持つものまでいる。

 天使の降臨もここでは取り締まりの対象となる。大勢の警官に追い回されて天使は消えるしかなかった。スレイマンは映画学校の講義に出席し「あなたは真の放浪者か」と質問され、答えることができない。またアラブ・フォーラムの盛り上がりにも入り込めないでいる。

 親友のガエル・ガルシア・ベルナルとともに、映画会社に作品の売り込みに行くが、スレイマンの作品がパレスチナ人のコメディと聴いて、体よく追い出されてしまう。

 かくしてナザレに戻ったスレイマンはいつもの日常に戻っていく――。

 まったく表情を変えることのないスレイマンが体験する旅の記憶といえばいいか。監督自身の言葉によれば、過去の作品のようにパレスチナを世界の縮図として描くのではなく、本作は世界各地がパレスチナの縮図として捉えたという。どこに行っても暴力や犯罪はあり、検問所がある。警察のサイレン、警報アラームが鳴り響く。世界各地がパレスチナ化されている証だ。そして自分たちの地域以外には徹底的に無関心でいられることの不思議。そうした事実に、スレイマンは優しく、鋭く問いかける。

 これは、自分は何者であるかというアイデンティティについて問いかけた作品でもある。どこの国に行っても、スレイマンは素直な視線で物事をみつめ、問いかける。なによりも人間に対して希望を持ち続けていることが映像から感じられる。こうした視線はスレイマンが1981年から1993年までニューヨークで暮らしたことと無縁ではないだろう。異境で暮らしたことで、故郷を外側からみることができるようになった。

 故郷を想う気持ちは人一倍、それをユーモアと諧謔に散りばめて映像化する。ここにスレイマンの真骨頂がある。

 寡作の作家エリア・スレイマンの最新作はユニークなユーモアがクセになる逸品。鑑賞をお勧めしたい。