『パリのどこかで、あなたと』は人と人との絆を軽妙に問いかけた、心優しき愛のコメディ。


『パリのどこかで、あなたと』
12月11日(金)より、YEBISU GARDEN CINEMA、新宿シネマカリテ、kino cinéma立川高島屋S.C.館ほか、全国順次公開
配給:シネメディア
© 2019 / CE QUI ME MEUT MOTION PICTURE – STUDIOCANAL – FRANCE 2 CINEMA
公式サイト:https://someone-somewhere.jp/

 フランス映画の歴史をひも解けば、無声映画時代のアベル・ガンスやルネ・クレール、ジャン・ルノワールの昔から、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールなどのヌーヴェル・ヴァーグの匠たちなどが頭に浮かぶが、近年になるとジャック・オーディアールに加えて、セドリック・クラピッシュの名を挙げたくなる。

 そもそも日本でこの監督の存在を知られるようになったのは、1996年の『猫が行方不明』からだった。ちょうどミニシアターが鎬を削っている頃で、作品のお洒落なイメージが女性映画ファンに受けて、大きな反響を呼んだ。

 ひさびさのヴァカンスに出るために、大事な猫を知りあいに預けたメークアップ・アーティストのヒロインが、戻ってみたら猫が行方不明。老人クラブや動物愛護団体をはじめ、移民青年を巻き込んで、大捜索を繰り広げるストーリー。パリの下町をテンポよく切り取る洒脱な演出によって、クラピッシュは古き良きフランス映画の資質を持ち、なおかつ時代を敏感に捉えるセンスの持ち主と評され、一躍日本でも注目の存在となった。おかげで長編映画監督デビュー作『百貨店大百科』や続く『青春シンドローム』も立て続けに劇場公開されたることになった。

 クラピッシュが同世代のフランス人監督と一線を画しているのは、分かり易さを身上にしていることだろう。時代の風を常に意識しながら、常に等身大の庶民を描いてきた。

 2002年の『スパニッシュ・アパートメント』からはじまり、2005年の『ロシアン・ドールズ』、2013年の『ニューヨークの巴里夫(パリジャン)』に至る“青春三部作”では、EU時代に突入したヨーロッパを背景に、その坩堝で生き抜く青年グザヴィエの軌跡を、十年を超える期間のなかで紡いでみせだ。

 こうしたクラピッシュのセンスは彼の軌跡に負うところが大きいと思われる。早くから映画を志し、大学ではウディ・アレンの論文を発表したクラピッシュだったが、登竜門たる高等映画学院(IDHEC)入学に失敗。そこでニューヨーク大学フィルムスクールに行って、映画を本格的に学んだという。

 こうした挫折経験が影響しているのか、クラピッシュはどこまでも見る者が共感できる視線を貫く。描くのは市井の人、庶民が多いが、過去を懐かしむだけの復古調の監督ではない。  

 時代の空気を軽やかに掬いながら、そこに生きる人々の心情をくっきりと映像に反映させる。どの作品も描かれる時代や流行によって、変貌する人々の姿を映像に軽快に浮かび上がらせてみせる。

 クラピッシュが脚本も手掛けたこの新作では、時代を活写する姿勢がいっそう顕著となっている。テーマはズバリ、SNSの時代に人間は真の意味での絆を結ぶことが可能なのか、である。

 今やFacebookやTwitter、Instagramなどが世界中の隅々にまで普及し、あたかも誰かと密接に繋がっているという幻想だけがまかり通る現代を背景に、クラピッシュは不器用に生きる男と女を設定。閉塞感に満ちた世界で、孤独と不安から逃れて真に絆を結べるのかを軽妙に綴っている。

 出演は前作『おかえり、ブルゴーニュへ』で、クラピッシュの眼鏡に適ったアナ・ジラルドとフランソワ・シヴィルが続いて起用されている。

 共演には『今宵、212号室で』のカミーユ・コッタン、『オーケストラ!』のフランソワ・ベルレアン、『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』のシモン・アブカリアンなどが居並ぶ。等身大のキャラクターにはぴったりの布陣である。

 大都会パリ。癌の免疫治療を研究する女性は、マッチングアプリでパートナーを探して一夜限りの関係を繰り返す。けれども満足できる結果は得られないまま、過眠症を患う。

 一方、倉庫で働く男は不器用で仕事もできず、内気で人づきあいの苦手で不眠症に悩まされている。

 近隣のアパートに住んでいても知り合うことのないまま、ふたりは孤独と不安を抱えながら、それぞれセラピーに通い、次第に過去に経験したトラウマに目を向けるようになる。

 近くに居ながらも、果たしてふたりは出会うことがあるのか。心を許せる相手に出会うことができるのか――。

 クラピッシュは温もりのある語り口で、どこにでもいるような愛すべき男女の成長を好もしく綴る。人と人との温もりをなにより実感したかったのに、今の社会ではそれを味わうのは容易なことではない。いや、SNSが「つながる」幻想をふりまくことで、かえって人と人との触れ合いを阻害しているのではないかと、この監督は軽やかに語りかける。

 主人公のふたりはセラピストを介して自分自身をみつめ、新たな絆を求めて人生を進めるようになる。実際に人と接すること、触れ合うことの大切さを、クラピッシュはユーモアたっぷりに綴っている。

 筆者のようなオールドタイプの人間は、人を知り、その温もりを実感できる関係こそ絆の本質だと考えているが、どうやらSNS時代の若い申し子たちはそうは考えていないようだ。もっとカジュアルで、人は距離を保っていたいという。クラピッシュは不寛容で緊張状態を強いられる現代にこそ、密な絆が必要だと謳いあげる。その姿勢に大きく賛同したくなる。

 悲しむべきことに、世界はコロナ禍に覆われる事態になった。触れ合うことはもちろん、人とはマスク、ソーシャル・ディスタンスを維持する仕儀となった。密に語り合うことなど夢物語。こんな時代であっても、人間らしく絆を育みたい。切に願う今日この頃である。