『精神0』はユニークな公開法も話題となった、想田和弘の心に沁みる純愛のドキュメンタリー!

『精神0』 5月2日(土)より〔仮設の映画館〕にてデジタル配信
配給:東風
©2020 Laboratory X, Inc
公式サイト:www.seishin0.com


 新型コロナウィルスは世界を変えてしまった。
 いつ終息するとも分からぬコロナ蔓延のなかで、今は外出せずに息をひそめることが求められている。限定された期間ならまだしも、仕事に出ることも規制され、気晴らしに外に出ること、友達と会うこともかなわない状況のなかで、人はどこまで我慢できるのか。
 病が消えうせることがないとすれば、人々は以前のように握手やハグ、近距離での会話を控えるようになる。人々の行為やマナーまで一変させてしまったのだ。映画やドラマでも恐らくコロナ前とコロナ後ではラブシーンの描き方も変わってくるのではないか。
 なにより深刻なのは映画館だ。
「三密」(換気の悪い《密閉》空間、多数が集まる《密集》場所、間近で会話や発声をする《密接》場面)のいくつかに該当するとみなされ、映画館は休館や限定上映を余儀なくされている。大手のシネマコンプレックスは耐えうるかもしれないが、この状況が続けば、ミニシアター系の劇場はいずれ廃館の危機に直面し、作品を提供する配給会社、製作会社も経営が立ち至らなくなる。といって、現状では映画館に足を運ぶことを喧伝するには、あまりにリスクが大きすぎる。
 いつ通常の状態に戻れるか分からない、ジレンマのなかで、知恵を絞って生まれたのが「仮説の映画館」というシステムだ。
 これは新作『精神0』の公開を控えた想田和弘監督と配給会社の東風が提唱するもので、インターネット上に「仮設の映画館」をつくり、『精神0』を上映する各地の劇場群のなかから、映画館を選んで鑑賞するという方法だ。
 見る者は鑑賞料金(一律1,800円)を支払い、通常の興行収入と同じく、劇場と配給会社、製作者に分配される仕組み。5月2日からの通常劇場公開が危ぶまれるなか、「仮説の映画館」はまさに注目すべきものだ。ひとりでも多くの参加を願いたい(仮設の映画館URL: www.temporary-cinema.jp/seishin0)

 もちろん、いくらシステムが良くても、上映される作品が見応えがなければ仕方がない。『精神0』は、興味横溢。自ら“観察映画”を提唱し、ドキュメンタリー作品を量産し続ける相田和弘監督の個性が十全に発揮された仕上がりとなっている。

 作品を紹介する前に“観察映画”とは何か。想田監督は題材に対してのアプローチ、撮影手法に対して厳しいルールを定めている。それが“観察映画”の十戒だ。

  1. 被写体や題材に関するリサーチは行わない。
  2. 被写体との撮影内容に関する打ち合わせは、(待ち合わせの時間と場所など以外は)原則行わない。
  3. 台本は書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。
  4. 機動性を高め臨機応変に状況に即応するため、カメラは原則、監督一人で回し、録音もひとりで行う。
  5. 必要ないかも?と思っても、カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す。
  6. 撮影は、「広く浅く」ではなく、「狭く深く」を心がける。「多角的な取材をしている」という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む。
  7. 編集作業でも、予めテーマを設定しない。
  8. ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。それらの装置は、観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう嫌いがある。
  9. 観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。
  10. 制作費は基本的に自社で出す。カネを出したら口も出したくなるのが人情だからヒモ付きの投資は一切受けない。作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはアリ。

 この十戒を自らに定めて撮り続けてきた想田監督の最新作、“観察映画”第9弾が『精神0』である。
 これまで『選挙』や『演劇1』、『牡蠣工場』、『港町』、『ザ・ビッグハウス』など、さまざまな題材を取り上げてきた想田監督のなかで、もっとも話題になったのは2008年に精神科クリニック「こらーる岡山」を舞台にした『精神』だった。
  “観察映画”第2弾となるこの作品で、想田監督は、統合失調症をはじめとする心の病を患う当事者、医者、スタッフ、ホームヘルパー、ボランティアなどが複雑に織りなす「こらーる岡山」という世界を浮かび上がらせた。山本昌知医師が診察するこの精神科診療所には多くの患者が通い、カメラを前に自分のありのままを語る。それだけで十分にセンセーショナルな内容となっていた。必然的に、静かに聞き役に徹する山本医師やしゃきしゃきと夫を支える山本夫人よりも、患者に力点が置かれた仕上がりになっていた。
 それから十年余の歳月が過ぎ、山本医師が引退するとの報に接した想田監督は、再び「こらーる岡山」にカメラを向けた。今回は、『精神』編集時に痛感した山本医師と夫人に対する尊敬の念を抱きながら、ひたすら映像に焼きつけていった。
 そこに浮かび上がってきたのは、人間は必ず老いるという普遍的な事実だ。
 患者たちから深い信頼を寄せられ、日々、治療に殉じてきた山本医師も、年齢を重ねるにつれて自らの区切りを意識せずにはいられなくなる。なによりも医師の強い味方だった山本夫人の衰えが医師に引退を決める引き金になった。おっとりした夫と対照的だった夫人が今は夫の支えが必要な状況となっている。
 想田監督は引退までの日々を記録し続ける。慰留に努める患者がいる。自分の悩みを語り続ける患者もいる。彼らの話を聞き、スタッフたちと語り合い、山本医師は最後の最後までいつもの医師であり続ける。
 そうして自宅に戻ると、山本医師は甲斐甲斐しく夫人の世話を焼く。その姿を見ていると,いかに医師が夫人を慈しみ、愛しているかが映像を通してふつふつと湧き上がってくる。
 そう、この作品は夫妻の美しい純愛物語であると同時に、人間はいつまでも同じではない。刻々、死に向かって老いていくという当たり前の事実を痛感させられる。想田監督は『精神』撮影時のクリップを挿入しながら、時の流れの非情さを浮き彫りにする。
 いかに天職と思っても、止めなければならないときは必ず来る。『精神』と異なり、どこかに人生の諦観を感じさせるあたり、想田監督が円熟を増した証拠だろうか。とりわけ夫婦が墓参りに行くシーンは心に沁みる。
 これまでの想田作品よりも強く惹きつけられるのは、自分も老いた証拠なのかもしれない。

 私たちは先の見えない明日を待つしかない。せめて映画に浸る自由だけは担保したい。映画は映画館で見るのが王道。
 映画、映画館の灯を消さないために、今一度「仮設の映画館(URL: www.temporary-cinema.jp/seishin0)をお勧めしたい。