カンヌ国際映画祭やヴェネチア国際映画祭を熱狂させる若手監督グザヴィエ・ドランの、『たかが世界の終わり』に続く2年ぶりの作品である。
2009年、19歳にして監督・脚本・主演作の『マイ・マザー』をカンヌ国際映画祭監督週間に出品、天才と称賛されて以来、ドランは『胸騒ぎの恋人』、『わたしはロランス』と発表するごとに話題を集め、『トム・アットザ・ファーム』はヴェネチア国際映画祭で国際批評家連盟賞に輝いた。2014年の『Mommy/マミー』はカンヌ国際映画祭審査員賞を手中に収め、2016年の『たかが世界の終わり』はカンヌ国際映画祭グランプリを受賞した。手がけた作品がことごとく映画祭に招かれ、熱狂的な支持を受ける。これだけ期待されている存在も珍しいのではないか。
本作はドランにとって初の英語作品となる。フランス語圏カナダの出身である彼にとって、英語で脚本を書くことには不安があったらしく、同じく俳優、監督、脚本家として活動しているジェイコブ・ティアニーを共同脚本家に据えた。ともに気心の知れた間柄で、ドランのイメージに沿ってエピソードを構築していったというが、構想期間は5年を要したという。『たかが世界の終わり』はフランスの劇作家ジャン=リュック・ラガルスの戯曲をドランがひとりで脚色をしたもので、厳密にいえば他人との共同作業ではない。ましてや英語作品となれば、ドランの繊細なセリフのやりとりに苦労したことは想像に難くない。
本作でもドラン作品のモチーフである母と息子の確執が軸に据えられているが、構成が少し凝っている。描かれるのは人気テレビスターとファンである少年の絆の物語だ。このアイデアは、ドランが8歳のときに『タイタニック』のレオナルド・ディカプリオにファンレターを書いた記憶がもとになっている。スターも少年も互いに大きな影響力を持った母をもっていることがストーリーに起伏を与える仕掛け。
出演者は豪華だ。ドラン自身がモデルになったと思しき少年には、『ルーム』が評判を呼んだジェイコブ・トレンブレイ。少年が憧れるテレビスターにはテレビシリーズ「ゲーム・オブ・スローンズ」のキット・ハリントンが起用された。
少年の母を演じるのは『ブラック・スワン』のナタリー・ポートマン、テレビスターの母には『デッドマン・ウォーキング』が鮮烈だった名女優スーザン・サランドン、さらに『リチャード・ジュウェル』のキャシー・ベイツや『エンテベ空港の7日間』のベン・シュネッツァー、『シャンドライの恋』のタンディ・ニュートンが名を連ねている。
ドラン自身は本作が母と息子というテーマの集大成だとコメントしている。演出もさらにこなれてきて、この上なくエモーショナルな仕上がりになっている。
2006年、ニューヨーク。人気俳優のジョン・F・ドノヴァンが29歳の若さでこの世を去った。自殺か事故か、あるいは事件だったのか。
10年後、ドノヴァンと当時11歳の少年だったルパート・ターナーの“文通”を描いた一冊の本が出版されることになった。今や新進俳優となったターナーが100通以上の交流の手紙を明らかにしたのだ。
所詮は話題づくりと軽んじていたジャーナリストに向かって、ターナーは、かつてのドノヴァンとの絆、子役として母とともに生きていた思い出を語り始める。それはジャーナリストをも動かすエモーショナルなストーリーだった──。
紡がれるのはドノヴァンと母、ターナーと母の確執だ。ドノヴァンもターナーも傷つきやすく繊細な内面を隠して生きているが、母たちはいずれも自分のことだけに懸命で息子の心情を思いやろうとしない。
ドノヴァンはスターとしての溌溂としたイメージと、同性愛的な志向を抱く内面のギャップに苦しみながら、それでもスターの役割を全うしようとする。ターナーはドノヴァンとの文通を唯一のよりどころに、いじめられっ子に甘んじている。ターナーの母は自分自身を嘆くことしかなく、子供を理解しようとする余裕がない。ドノヴァンの母も息子が自分を嫌う理由が分からない。自分の独善的な性格に思い至らないのだ。
母も子供も互いを愛する気持ちは人後に落ちないのだが、それがかえって傷を深くしている悲しさ。ドランの感情の起伏を繊細に取り込む演出が、二組の母、息子の関係を切なく紡ぎだす。やはり母国語ではない英語に苦労したのか、多少、紋切り型の語り口のところはあれども、情感の盛り上げ方はドランの真骨頂。母と息子、それぞれの思いを浮き彫りにして、見る者の感情を翻弄してみせる。
ドランの気持ちを具現化した演技陣も作品の魅力に大きく貢献している。まずドノヴァンに扮したキット・ハリントンが、スターのイメージを維持しようとして、次第に壊れていくキャラクターをみごとに表現している。自分自身を理解しようとしない周囲に囲まれ、もがき苦しむ展開にはまことに共感を禁じ得ない。誰しも社会的なイメージと自分自身との違いに折り合いをつけて生きているものだが、性格が内省的、繊細であればあるほど苦しむことになる。ドランの分身でもあるハリントンの細やかな演技がアイデンティティの喪失に苦しむ人間像をくっきりと肉づけしている。
加えて子供時代のターナーを演じたジェイコブ・トレンブレイが圧巻の演技を披露する。友もなく、誰からも理解されない苦しみに耐えながら、精いっぱい自分自身であろうとする子供心を巧みに演じ切ってみせるのだ。『ルーム』や『ワンダー 君は太陽』でも、演技力のあることは証明していたがここでの演技は絶品といっていい。
このふたりに対するのが母に扮した豪華オスカー女優たち。ナタリー・ポートマンは自分を憐れみ、子供に愛情を注ぐ余裕のないターナーの母親をテンション高く演じれば、ドノヴァンの母に扮したスーザン・サランドンは、息子の気持ちが離れたことを悲しみながらも、自分を省みることのないキャラクターを確かな表現力で画面に焼きつけている。
さらにエモーショナル映像を倍加するアデル、ザ・ヴァーヴをはじめとする挿入された楽曲の数々はいかにもドランならでは。感情に揺れる映像とともに、見る者の心に沁み入っている。欧米では今ひとつ評価されなかったようだが、一見に値する作品だ。