2006年に公開された『フラガール』は、日本アカデミー賞作品賞・監督賞・脚本賞・話題賞・助演女優賞を手中に収めたのをはじめ、大きな話題となって、李相日監督の名を広く知らしめることになった。
2010年には『悪人』が公開され、李監督の演出力がさらに高く評価されることになった。この作品は吉田修一の大佛次郎賞受賞作の映画化で、原作者自らが脚色に参加。李監督とともに脚本を練り上げたことでも注目を集めた。ふとしたことで殺人を犯してしまった青年と、彼に出会ってしまった孤独な女性との逃避行の顛末を描きつつ、被害者、加害者、双方の関係者の人間模様を浮かび上がらせる。閉塞感に覆われた世界に生きる人間のやりきれない孤独、心の闇を、李監督はリアルに掬い上げてみせた。
この作品は、日本アカデミー賞で主演の妻夫木聡、深津絵里が受賞し、柄本明、樹木希林が助演賞に輝くなど、演技賞を独占。特に深津はモントリオール世界映画祭で主演女優賞を獲得し、文字通り代表作となった感がある。共演の岡田将生、満島ひかりも熱の入った演技を披露するなど、俳優たちのアンサンブルが際立った仕上がりとなった。
李監督は続いて2013年に、クリント・イーストウッドの名作のリメイク『許されざる者』に挑んだが、残念ながら、オリジナルを超える作品とはならなかった。
それではとばかりに、吉田修一と再度、タッグを組んだのが本作である。
プレスによれば、吉田修一が出版される前に本作を李監督に送ったのだとか。『悪人』につながる要素があり、監督がどのような反応をみせるかに興味があったのだという。李監督は原作者の目論見にみごとにはまった。しかも今度は、原作者は脚色に参加しないことを宣言。李監督が孤軍奮闘して、映像化の難しい原作に挑むことになった。
残忍な夫婦殺人事件の犯人が逃亡。1年後、千葉、東京、沖縄に素性の分からぬ男がそれぞれ住みついて、新たな人間関係を築くなかで、周囲に疑念の波紋を巻き起こす展開。ひとつのストーリーにまとめあげるのが難しく、まさに監督としての力量が問われる作品だが、李監督はそれぞれの顛末をモザイクのように散りばめる語り口で勝負している。
本作の話題は何といっても豪華な出演陣にある。ブロードウェイで「王様と私」に挑戦した渡辺謙を筆頭に、『モテキ』の森山未來、『春を背負って』の松山ケンイチ、『日本で一番悪い奴ら』の綾野剛、『海街diary』の広瀬すず。さらに『ジョゼと虎と魚たち』の池脇千鶴、『ソラニン』の宮崎あおい、『悪人』の妻夫木聡。加えてNHKテレビ小説「とと姉ちゃん」で人気上昇中の高畑充希、オーディションで抜擢された佐久本宝まで、多士済々。原作者は『オーシャンズ11』のようなオールスターそれぞれが個性と演技力を存分に発揮して、みごとなパフォーマンスを発揮している。
人が人を信じることが難しくなっている現代という”不信“の時代に、あえて信ずることの意味を問い直すヒューマン・ミステリーといえばいいか。音楽を坂本龍一が担当しているのも話題である。
暑い夏の日、八王子で夫婦惨殺事件が起きる。犯人は被害者の家の壁に“怒”の血文字を残していた。犯人は整形して顔を変え、逃亡を続けていた。1年後、千葉、東京、沖縄で素性の分からない3人の男が生活を始めた。
千葉では、風俗で働いていた愛子が父親・洋平に実家に連れ戻され、生活するうちに、父の下で働く謎の青年・田代に惹かれていく。
東京ではエリート・サラリーマンの優馬が、ゲイの発展場でミステリアスな直人と知り合い、やがて一緒に暮らし始める。
沖縄では、母と離島に引っ越してきた女子高校生の泉は同級生の辰哉のボートで無人島に向かい、バックパッカーの田中と出会う。泉は彼に好感を覚えた。
やがて、警察は新たな手配写真を発表する。この写真は3人にどこか似ていた。
愛子は田代とともに暮らすことになるが、洋平は田代に対して不信感を抱き、愛子は否定しながらも不信の念にかられる。
優馬も自らの過去を明かさない直人に対して、愛しながらも信じられないでいた。写真が公開されてからはなおのこと、不審な行動が目立つようになる。
沖縄では那覇で、泉と辰哉が田中と偶然に出会うが、その後で起きた事件がもとで、3人の関係は大きく変貌する。
心を寄せながらも信じきれない。田代、直人、田中をめぐる人々は感情を揺さぶられる結末を迎えることになる――。
人と真剣に向き合えば向き合うほど、信頼を育むのは難しい。人は天使のように純なところがあると思えば、一方で心に闇を抱いていたりもする。現代という誰もが賢くなった時代にあっては、人間にはいくつもの貌があることを、誰もが分かっている。今や、いささかの疑いもなく、他人を信じることなどできはしない。むしろ葛藤しながらも、信じようと努めるのが誠実な姿だ。
本作の登場人物は信じうるか否かの命題を迫られ、それぞれ導き出した答えに、あるものは深い後悔に苛まれ、あるものは激情にかられる。そのいずれもの姿がみる者に大きな共感を呼ぶ。それは誰もが持っている人間の業であるからだ。李監督は3つの地域の物語をコラージュしつつ、それぞれの不振に至るプロセスを過不足なく紡いでいる。『悪人』ほど重厚ではないが、人間を真摯に見据えた、琴線に触れる演出ぶりである。
題名の“怒り”に対しては、愛する人間を信頼できない自分に向けられたものなのか、あるいは単純に人を信頼できる世界ではなくなったことに対するものなのか。それとも無力感しか残らない、閉塞感しかない今の日本に向けられたものなのか――。描かれる沖縄の状況に対して“怒り”を感じない人はいないだろう。
俳優たちはいずれも素晴らしい。娘思いの朴訥な父を演じた渡辺謙、心優しい娘・愛子役の宮崎あおい、田代役の松山ケンイチのアンサンブルもいいが、優馬役の妻夫木聡、直人役の綾野剛の繊細な感情表現もみごとの一語。沖縄編では森山未來の怪演が際立つが、どっこい泉役の広瀬すずの熱演が光る。覚悟を決めて役に挑む、彼女の根性をみた気がする。
俳優たちの演技と、予断を許さない展開にグイグイと惹きこまれる。2016年屈指の日本映画といいたくなる。一見をお勧めしたい。