もはやアメリカン・コミックの映画化はアメリカ映画界には欠くことができない。生みだされる作品がいずれもヒットチャートを駆け上がり、しかも内容的にも趣向が凝らしてあって見応え充分だから申し分がない。かくしてアメリカン・コミック原作作品は量産されることになる。
一時期は映像化に力を入れるマーベル・コミックスのヒーローたちが全盛だったが、ここにきて、DCコミックスが本格的に映像化戦略を推進してきた。もともとスーパーマンやバットマンをはじめ、日本でも広く知られているキャラクターを擁し、これまでもリチャード・ドナー版『スーパーマン』や、ティム・バートン版『バットマン』2作、クリストファー・ノーラン版『バットマン』3部作など傑作も数多いDCコミックスだけに、映像に本腰を入れたとなると、否が応でも期待は高まる。
この戦略はDCコミックスの実写映画化作品を、ひとつの架空世界を舞台に、同一の世界観でクロスオーバー作品として扱うもので、“DCエクステンデッド・ユニバース”と呼ばれる。
2013年の『マン・オブ・スティール』が皮切りで、製作・原案のクリストファー・ノーランと脚本のデヴィッド・S・ゴイヤー、監督のザック・スナイダーのチームが結束して陰影に富んだ世界を構築。続いて今年公開された『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』では、脚本に『アルゴ』のクリス・テリオが参画して、なんとバットマンとスーパーマンが登場し、互いの反目と葛藤に力点が置かれるという趣向。副題が“ジャスティスの誕生”とある通り、“アベンジャーズ”のようにヒーローたちが結集する“ジャスティス・リーグ”の芽もストーリーに組み込まれるなど、今後の作品に含みを持たせた仕上がりとなっていた。
そして『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』の記憶が未だ鮮烈な9月、本作の登場となる。本作もまた“DCエクステンデッド・ユニバース”に属していて、時系軸は『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』の直後に設定されている。
ただ、本作で活躍するのは世にいうヒーローとは真逆の存在。悪役たちが妍を競うというユニークな発想だ。人類最強のスナイパーのデッドショット、残酷な悪のプリンス・ジョーカーの恋人にしてクレイジーでセクシーなハーレイ・クインをはじめとして、人間発火装置のエル・ディアブロ、怪力ワニ男のキラークロックなど、極悪非道な悪党たちが選りすぐられ、それぞれの弱みを突かれて、図らずも世界を救う任務を引き受ける。そこには『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』で描かれたスーパーマン不在の状況が大きく作用している。
ロバート・アルドリッチの1967年作『特攻大作戦』をほうふつとする設定だが、この極悪犯罪人プロジェクトを束ねる政府高官が、野心に燃えた極悪人よりも邪悪な女性であるところがミソ。脚本・監督を担当したデヴィッド・エアは『トレーニング デイ』の脚本で知られ、監督作も『バッドタイム』(劇場未公開)や『エンド・オブ・ウォッチ』、『フューリー』などできびきびした演出が高く評価されている。前作『フューリー』で第2次大戦末期に戦車に登場した男たちを活き活きと描いたエアーが、本作では極悪人たちの個性を描き分けながら、誰が本当の悪なのかを浮かび上がらせている。
出演は『メン・イン・ブラック』などでおなじみのウィル・スミスに『ダラス・バイヤーズクラブ』でアカデミー助演男優賞に輝いたジャレッド・レト、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』のマーゴット・ロビー、『ロボコップ』(2014年版)のジョエル・キナマン、そして『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』でアカデミー主演女優賞にノミネートされた演技派ヴィオラ・デイヴィス、さらに日系の福原かれんも顔を出す。まことにヴァラエティに富んだ顔ぶれである。
スーパーマンがいなくなった世界は、崩壊の危機に瀕している。アメリカ政府の高官アマンダ・ウォラーは危機を訴え、スーサイド・スクワッド(自殺部隊)計画を強引に承認させた。
刑務所や病院に隔離されている犯罪者を選び、それぞれの弱みを突いて軍団を結成し、敵と戦わす作戦だ。あくまで軍団を駒として考えるウォラーはメンバー全員に首に爆破装置を埋め込み、逃亡を許さない。デッドショットは最愛の娘と会えることを条件に引き受けさせられたし、ハーレイ・クインやエル・ディアブロ、キラークロックたちも減刑などをちらつかされるが、独房よりもましと考えてメンバーになった。彼らを引率するフラッグ大佐は戦闘技術に長けたエリートだったが、邪悪な古代の魔女に取り憑かれた女性を愛してしまったばっかりにウォーカーに弱みを握られ、彼女の忠実な部下になっていた。
戦場に放り込まれた彼らはそれぞれのスキルを活かして、敵を倒していく。しかしこのミッションには別な意図もあった――。
ストーリーが進行するにつれて、スーサイド・スクワッドのメンバーがより人間的な存在であることが浮き彫りにされる。デッドショットはよき父親だし、一見、クレイジーなハーレイ・クインも実はジョーカーに対する愛に貫かれたキャラクターであることが分かってくる。メンバーに入っていないジョーカーもハーレイ・クインのために生命を賭けるのだ。メンバーを率いるフラッグ大佐も愛のために意にそぐわぬミッションを行なわねばならない。あまりに人間的な彼らの対極に、正義や人類を謳いながら、非情なウォラーがいる。ここにエアーの意図がある。
これまでの彼の作品『トレーニング デイ』や『エンド・オブ・ウォッチ』や『フューリー』などでも描いてきたごとく、正義と悪の境界線は常にあいまいであることを本作でも描きだしているのだ。たとえ、アメリカン・コミックの映画化であっても、単純な善悪二分化のストーリーではすませないという意志に貫かれている。
見ていくうちに、ジョーカーとハーレイ・クインはロミオとジュリエット並みのロマンチズムを滲ませてくる。本作は非道な悪党が愛のために奔走する展開。ヒーロー映画であっても絵空事にしない。あくまでも迫真性、リアルさにこだわるエアーの個性が横溢している。
出演者も、よき父親デッドショットにスミスが起用されたのも頷けるし、狂えるヒロイン、ハーレイ・クインに扮したロビーも精いっぱい弾けてみせる。ジョーカー役のレトも一度見たら忘れられない怪演ぶりを披露し、フラッグ大佐役のキナマンは武骨さを際立たせて好感を呼ぶ。だが最も凄いのはウォラーに扮したデイヴィスだ。どんな出来事にも非情を貫き、ひたすら意志を貫こうとする。この感情の欠如が怖い。こういう役人がアメリカには多いというが、彼らが世界を動かしていると思うとぞっとする。
痛快さ、軽快さを画面に盛り込み、リアルさも失わない。本作では製作総指揮のザック・スナイダーは今後もDCコミックス作品の製作、監督を行なうという。マーベルとは異なるドラマ世界を送り出しているDCコミックス世界、これからも期待したいところだ。