ジャーナリズムの基本は権力に対して常に批判の目を光らせていることだが、いうは易いが行ないは難し。最近の日本のメディアをみていると、その思いが強まる一方だ。経済を至上のものとしている社会である限り、メディアが本分を貫くのは容易なことではない。
第88回アカデミー賞作品賞並びに脚本賞を獲得した本作は、ジャーナリズムの在り方を描きだした点で、今の日本人がみるべき映画といえる。
描きだすのは、アメリカ・ボストンの日刊紙ボストン・グローブが2002年から行なった衝撃の調査報道の全容である。同紙の調査報道のコーナー“スポットライト”がカソリック神父の性的虐待を記事にするために苦闘するプロセスを克明に綴っている。
カソリックの神父の性的虐待のスキャンダルはそれまで口の端にのぼることがあっても、報道されることがなかった。ヴァチカンを頂上にいただくカソリックは世界中に信徒を誇る巨大な権威。ここを代表する神父を批判することは、すなわち覚悟を決めて臨まねばならない。ましてボストンはアイルランド系、イタリア系移民が多かったことから、必然的にカソリック信徒の割合が高く、取材することもままならなかった。まして“ボストン・グローブ”の購読者の半数以上がカソリックという状況のなかでの報道なのだから、記者たちの苦労がしのばれる。姿勢を素直に称えたくなる。
脚本を担当したのは、『扉をたたく人』で知られ、本作の監督も務めたトム・マッカーシーと、ウィキリークスの創設者ジュリアン・アサンジの軌跡に迫った『フィフス・エステート/世界から狙われた男』(劇場未公開)で注目されたジョシュ・シンガー。ふたりはこのボストン・グローブ紙の調査報道の顛末を克明なリサーチ、取材を課した上で脚本化していった。何といっても当事者たちが未だにボストンで生活していることもあり、故意にドラマチックに仕上げたり、サスペンスを煽りたてたりすることは避けている。“スポットライト”を担当するチームがどのように活動し、記事を書き上げていったかが、事実に忠実に抑制を持って綴られる。
マッカーシーの演出もあくまで正攻法。題材的に『大統領の陰謀』を思い浮かべる人も多いだろうが、本作はヒロイズムではなく、あくまで群像ドラマとしてジャーナリスト魂を称えている。たとえ躊躇せざるを得ない権威であっても、事件が起きれば調査し報道するという、ジャーナリストとしては当たり前のことが描かれている。
出演は『アベンジャーズ』のハルク役でおなじみのマーク・ラファロに、昨年のアカデミー作品賞に輝いた『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のマイケル・キートン、『きみに読む物語』のレイチェル・マクアダムス、『ウルヴァリン:X-Men ZERO』のリーヴ・シュレイバー、テレビシリーズ「MAD MEN マッドメン」のジョン・スラッテリー。さらに『あの頃ペニー・レインと』のビリー・クラダップ、『プラダを着た悪魔』のスタンリー・トゥッチなど、実力派俳優が勢揃いしている。
すべてはボストン・グローブ紙に新たな編集局長、マーティ・バロンが赴任したことからはじまる。マイアミからやってきたユダヤ人のバロンは、インターネットの普及が新聞業界を圧迫すると危機感を抱いていて、独自の読み応えのある記事が必要だと考えていた。
最初の編集会議で、彼は“ケーガン事件”を調査するように指示した。
“ケーガン事件”とは、ボストンの神父ケーガンが30年間に80人もの子供たちに性的虐待を行なったとされるもので、カソリック教会は全面的に否定していた。この事件を調査するということはボストンの絶対権力である教会を敵にするということを意味する。購読者の53%がカソリック信者というボストン・グローブにとっては死活問題になりかねない。
だがバロンは意に介さず、じっくりと調査し、1年間に渡って連載する特集記事欄“スポットライト”のチームに担当を命じた。編集デスクのウォルター・ロビンソンは、マーク・レゼンデス、サーシャ・ファイファー、マット・キャロルといった記者たちに、確実な情報を掴むまでは極秘に行動するように命じる。
しかし取材は予想以上に難航し、協力を得られない日々が続いた。記者たちの粘り強い調査は、やがて性的虐待を行なっているのがケーガンだけではなく、多数に上ること。その事実をカソリック教会が隠蔽していたことを知る。虐待を受けた被害者たちの苦しみを目の当たりにしたチームは教会という組織の隠蔽システムを暴く調査にシフトする。
取材は2001年の9月11日の同時多発テロによって中断するものの、2002年1月に紙面を飾ることになる――。
マッカーシーはあくまでクールな語り口に徹してみせる。マッカーシー自身がカソリック教徒として育てられたバックグラウンドがあることも影響しているのか、やみくもにカソリック教会を攻撃する展開にはしていない。宗教自体を否定するのではなく、あくまで宗教組織が隠蔽を行なった事実を指摘した記者たちの軌跡を描いているのだ。宗教を題材にすると、とかく問題視されがちだが、この場合は性的虐待という生々しい事件がもとになっているため、否定しにくいこともあって、映画化が実現したと思われる。
だから、アメリカ映画にありがちなメリハリ、ケレン、熱血ドラマを本作に期待すると物足りなく感じてしまうかもしれない。でも考えてみれば、俳優が演じるにせよ、今もボストンで生活する実在の人物に脚光を当てているのだ。映画がもとで、ネガティヴなイメージを持たれないように細心の注意が必要なのはいうまでもない。そうした制約を差し引いて、本作を眺めると、みごとという他はない。誠実にまとめた脚本と演出に拍手を送りたくなる。こうした実話の映画化は日本ではあまり実現しないが、もっと生まれてもいいと思う。題材には事欠かないはずだ。
俳優陣も、誰かがずば抜けて輝くというよりも、あくまでもアンサンブルで勝負している。レゼンデス役のラファロやロビンソン役のキートン、ファイファー役のマクアダムス、バロン役のシュレイバーをふくめ、いずれも淡々とキャラクターになりきってみせる。ひとりひとりが奏でるハーモニーが、作品をさらに魅力的なものにしているのだ。
こういう不正を暴く報道が日本ではめっきり少なくなった。不倫報道にうつつを抜かしているうちに、真に報道すべき題材がないがしろにされている。一面的にボストン・グローブ紙を称える気持ちはないが(単純な正義感だけではなく、そこにはさまざまな事情もあったのだろうし)、ひとつのタブーを打ち破ったことは事実。本作を見てジャーナリズムは未だ捨てたものじゃないと、少し嬉しくなった。