『イーダ』は、かつてのポーランド映画黄金期作品の心を継承した、少女の成長を描いたロード・ムービー。

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『イーダ』
8月2日(土)より、渋谷シアター・イメージフォーラムにてロードショー。
配給:マーメイドフィルム
© Phoenix Film Investments and Opus Film
公式サイト:http://mermaidfilms.co.jp/ida/

 

 

 最近は公開される機会が少ないが、ポーランド映画といわれてまず頭に浮かぶのが、アンジェイ・ワイダの『地下水道』(1957)や『灰とダイヤモンド』(1958)、『夜の終わりに』(1961)。アンジェイ・ムンクの『パサジェルカ』(1963)、イェジー・カヴァレロヴィチの『夜行列車』(1959)、『尼僧ヨアンナ』(1961)といった、1950年代後半に世界中から熱い注目を浴びた“ポーランド派”の作品群だ。
 続いて世代が若いロマン・ポランスキーの『水の中のナイフ』(1962)、さらに時代は下ってクシシュトフ・キェシロフスキの『殺人に関する短いフィルム』(1987)、クシシュトフ・ザヌッシの『太陽の年』あたりが忘れ難い。さらにいえば『夜の終わりに』の脚本を担当し、西欧に出てから監督として日本では注目された『早春』(1970)のイエジー・スコリモフスキーもポーランドの出身だ。いずれもが、当時の社会主義社会に対する変革への思いを内包しながらさまざまな題材を取り上げた。
 なによりも映像の鮮烈さがみる者の心をとらえてやまなかったし、『夜の終わりに』や『水の中のナイフ』では、ジャズピアニスト、クリストフ・コメダの音楽を使って映像との相乗効果を狙う試みもなされていた。当時の若者たちが熱狂したのも頷ける。今見ても、その映像のパワーはいささかも衰えていない。

 本作の監督パヴェウ・パヴリコフスキは、“ポーランド派”が活躍しはじめた1957年にワルシャワで生を受けた。14歳のときに故国を離れ、オックスフォード大を卒業した後に、英国のテレビのドキュメンタリーから出発。エミリー・ブラント主演の『マイ・サマー・オブ・ラブ』(2004劇場未公開)やイーサン・ホーク主演の『イリュージョン』(2011劇場未公開)を手がけて注目されて、本作に至る。これが初めて母国で撮りあげた作品である。
 モノクローム、スタンダードサイズの映像が、1962年のポーランドで自らのアイデンティティを知るために、叔母と旅することになる少女の軌跡を瑞々しく紡ぎだす。時代設定のせいでモノクロームにしたのだろうが、映像の随所に“ポーランド派”の影響が織り込まれていく。先達に対するこの監督なりのオマージュなのだろう。ジョン・コルトレーンの名曲から当時のポップミュージック、モーツァルト、バッハまで巧みに挿入される音楽もみごとの一語だ。

 1962年、孤児として修道院で育てられた少女アンナは、修道院長から唯一の親戚がいることを知らされ会うことを勧められる。
 アンナが叔母のヴァンダを訪ねると、叔母は彼女がユダヤ人であり、名前がイーダであることを告げる。叔母は検察官を務めて体制に反する者を糾弾する立場だが、酒とセックスに溺れることで過去の記憶から逃れようとしていた。
 ヴァンダはアンナを誘い、かつてアンナの両親が暮らしていた場所を訪ねることにする。途中で事故を起こしたり、ヒッチハイク中のミュージシャンを乗せたりしながら故郷の町に到着したふたりは両親が暮らしていた家を訪ねる。そこにはポーランド人夫婦が住んでいた。その夫婦の父親がアンナの両親の最後を知っているはずだと踏んだヴァンダは、厳しく彼を追求すると、やがて驚くべき事実が明らかにされる。
 その真相を知ったアンナとヴァンダはそれぞれ意外な行動を選択していく――。

 出自をまったく知らないヒロインのアイデンティティが明らかにされるミステリー的な興味から、次第にポーランドの忌まわしい過去が浮かび上がってくる。アンナもヴァンダもその被害者であるわけだが、映画は声高に過去を糾弾するわけではない。むしろ抑制を利かせて、その悲しみを背負ったふたりを見据えていく。瑞々しい映像は、あくまでもひとりの無垢な少女の世間を知る旅という軸からぶれることはない。ここに好感を覚える。
 監督のパヴリコフスキにとっては、1962年は映像や音楽の記憶が初めて鮮烈に入り込んだ時期だったという。その活き活きとした記憶を本作に散りばめることに専念したと語る監督は自分の当時のアルバム写真のイメージを映像に仕立てた。モノクロームの映像はそこに起因するのか。監督はさらに当時のポーランドが現在よりもクールでオリジナルがあったとコメントしている。このセリフは社会全体を指したのだろうが、かつての“ポーランド派”の作品群が念頭にあったことは間違いないだろう。
 画面上方を大きく空けたモノクローム映像の切り取り方にも惹きつけられるが、なによりも無駄なところがいささかもない脚本がみごとだ。パヴリコフスキと英国の女性劇作家レベッカ・レンキェヴィチが共同で練り上げたもので、簡潔なセリフのなかに緻密な世界が構築されている。音楽を担当したクリスチャン・エイドネス・アスナンはラース・フォン・トリアーの作品群のサウンド・デザイナーとして知られている。ここでは静謐な映像を活かす状況のもとで音楽を巧みに挿入してみせる。

 もちろん、出演者の魅力も忘れてはいけない。ヒロインのアンナを演じたアガタ・チュシェブホフスカはこれが映画初出演となる。今後、女優として活動をするつもりはないと本人はコメントしているが、眼差しの深さと無垢な存在感はまことに印象的だ。体制側の加害者であり続けることに重圧を感じる知性と良心を秘めながら、蓮っ葉にふるまうヴァンダを演じるアガタ・クレシャも素敵だ。ポーランドでは有名な女優らしいが、憂鬱なキャラクターをあえて演じすぎず、存在感十分に表現している。

 能天気な作品も夏にふさわしいが、こうした心に沁み入る作品に触れるのも一興。一見に値する仕上がりである。