『ジョアン・ジルベルトを探して』はボサノバの神さまを求めて旅する、心に触れるドキュメンタリー。

『ジョアン・ジルベルトを探して』
8月24日より新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次ロードショー
配給:ミモザフィルムズ
©Gachot Films/Idéale Audience/Neos Film 2018
公式サイト:http://joao-movie.com/

 

ボサノバというブラジルの音楽様式を認知したのは、レコードからだった。内省的な雰囲気のあるボサノバはジャズと結びつき、スタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトが競演した「ゲッツ/ジルベルト」が世界的なベストセラーを記録。なかでもアストラット・ジルベルトが歌った「イパネマの娘」は大ヒットを飾った。

以降、多くのジャズプレイヤーがボサノバのナンバーをレパートリーに加えたことも記憶に新しい。さらにカーネギーホールでボサノバの匠たちが演奏会を開き、後にセルジオ・メンデスがアメリカの音楽チャートにヒット曲を送りこんだ。

1960年に日本公開された映画『黒いオルフェ』の話をしなければいけない。原作となる戯曲を書いたのがヴィニシウス・ヂ・モライスで、音楽はアントニオ・カルロス・ジョビンとルイス・ボンファというボサノバの偉人たちが担当していたからだ。この作品を契機にボサノバは広く世界に知られるようになったのだ。

さらに1966年の『男と女』がボサノバを認知させるのに一役を買った。劇中でピエール・バルーが歌った「サンバ・サラヴァ」の歌詞には、ヴィニシウスやジョビンをはじめとするボサノバの立役者たちの名が織り込まれ、讃辞が述べられていた。

こうしてボサノバは世界各地で認知され、むしろブラジル本国よりも日本、ヨーロッパで定着した。さらに、2005年に製作されたドキュメンタリー『ディス・イズ・ボサノヴァ』が、2007年に日本で公開され時ならぬヒットを記録した。ボサノバに対する認知度の高さ、ファンの多さを表した映画だったといえる。

 

本作は題名の通り「ボサノバの神さま」、あるいは「ボサノバの法王」と呼ばれるジョアン・ジルベルトを探すドキュメンタリーだ。ジョアン・ジルベルトといえば、前述の「ゲッツ/ジルベルト」で世界的に注目されたボサノバの創始者のひとりで、「イパネマの娘」や「想いあふれて」などの名曲で知られる伝説的なミュージシャンだ。

華麗なるギター演奏と甘美な歌声で知られている一方、気難しい変わり者ともいわれている。日本はとりわけ気に入ったようで2004年、2006年と来日を重ね、素晴らしい歌声を披露したが、2008年のボサノバ誕生50周年記念コンサートの出演を最後に、公の場に出ないまま10年を超える歳月が過ぎている。

この作品が生まれるきっかけはドイツのジャーナリスト、マーク・フィッシャーの書いた「Ho-Ba-La-La: A Procura de Joao Gilberto」に起因する。ジョアン・ジルベルトに会うためにリオ・デ・ジャネイロに向かいながら果たせなかった顛末を、フィッシャーはみごとな文章で綴っていた。優れた旅の記録で、フィッシャーのブラジルの音楽、文化、そしてボサノバに対する鋭い考察が織り込まれていた。だが、彼は本が出版される一週間前に自ら生命を絶ってしまったのだ。

この本を手にしたのがフランス出身の映画監督ジョルジュ・ガショ。テレビ用の音楽映画を数多く手がける彼は、フィッシャーの旅に感銘を受け、“ジョアン・ジルベルトを探す旅”を引き継ごうと決心した。フィッシャーのブラジル音楽への情熱にうたれ、なにより文章から立ち上る「サウダージ(saudade)」(郷愁や憧憬、大人になったことで得られなくなった懐かしい感情を意味することば)にガショが共鳴し、映像化を決意したという。

 

映画はリオ・デ・ジャネイロに降り立ったガショがフィッシャーの本と資料を携えて、フィッシャーの軌跡をトレース。フィッシャーの通訳ハケルとともに、ジョアン・ジルベルト捜索に向かう。

ジルベルトのなじみの料理人、ジルベルトの元妻のミウシャ、ジルベルトがお墨付きを与えた物まね歌手アンセルモ・ホシャ。かつて大親友だったミュージシャンのジョアン・ドナートに作曲家のホベルト・メネスカル、作曲家で歌手のマルコス・ヴァーリ、ついにはマネージャーのオタヴィオ・テルセイロに行き着く。

 

ジョルジュ・ガショの意図はあくまでもカーク・フィッシャーの旅に重ね合わせ、通常の“人探し”とは異なって、フィッシャーの思いを映像に浮かび上がらせることにあった。文章の引用とともに、ボサノバの考察、フィッシャーの情熱がリオ・デ・ジャネイロの陽光さんさんたる風景のなかに紡がれる。いうなればジョアン・ジルベルトという伝説を通してボサノバの本質、魂、サウダージを明らかにする旅なのだ。映画の進行とともに、彼に会えるか否かということは大して問題ではなくなる。ジルベルトを探す旅をしたこと自体がかけがえのない体験に転化していくからだ。

本作はジョアン・ジルベルトの伝説をさらに広める役割を果たすことになった。公開が決まってまもなく経った2019年7月8日、ジルベルトは88歳でこの世を去った。年齢からいえば、いつ逝去の報が来てもおかしくなかったが、ボサノバを愛する者にとっては大きな穴がぽっかり空いた気持ちになる。10年以上、公演がなかったとはいえ、内省的で知性を感じさせる歌声、シンプルながら深みのあるギターの調べはもはや聴くことができないのだ。名演といわれる日本公演の映像、レコードに接することで、彼を偲びたいと思う。

 

夏の終わりにふさわしい作品。見終わると、ボサノバに触れたくなる。ジョアン・ジルベルト、ボサノバという音楽を題材にした映像エッセー。一見をお勧めしたい。