1994年に『天使が隣で眠る夜』で監督デビューして以来、『つつましき詐欺師』(劇場未公開)、『リード・マイ・リップス』、『真夜中のピアニスト』、『預言者』、『君と歩く世界』と、決して作品の数は多くないが、ジャック・オディアールはフランスのフィルムノワールの流れを継ぐ存在と目されている。どの作品もスタイリッシュで細やかな語り口のなかに、キャラクターが際立ち、魅力的なストーリーが映像に焼きつけられる。
カンヌ国際映画祭では『天使が隣で眠る夜』がカメラ・ドール、『つつましき詐欺師』が脚本賞、『預言者』がグランプリに輝いたのをはじめ、セザール賞(フランスのアカデミー賞)の常連でもある。
ここまで注目されているのは、ひとつには彼の父親が『夜の放蕩者』や『冬の猿』、『地下室のメロディ』、『女王陛下のダイナマイト』など、フィルムノワールで知られる脚本家であったことも大きい。
『真夜中のピアニスト』公開時に来日したオディアールにインタビューしたときには「私は映画を芸術だと考えるシネフィル的な側面があるが、父は映画を職業と考えるプロだった。父がいなければ、私は映画界にいなかったろうし、年齢を重ねるに従って父の影響の強さを痛感している」と語っていた。彼の軌跡を振り返れば、映画の編集助手から、父と同じく脚本の道に進み、作劇のノウハウを身につけていったわけで、確かに父の存在を抜きにはできない。ただ、映画監督として踏み出してからは、卓抜した演出と人間を見据える力を磨き上げ、今や唯一無二の個性となっている。
さらに、“映画は社会を映す鏡”とはよく言われるが、近年のオディアール作品にはとりわけ顕著に時代が反映されている。『預言者』ではアラブ系の青年が刑務所という極限状況のなかで、知恵と暴力で地歩を築いていく姿を描き出し、『君と歩く世界』では子持ちのはみだし者が“拳”で居場所をつくる過程を、両足を失った女性とのラヴストーリーのなかに綴った。よそ者が社会のなかで自分の居場所を獲得していくストーリーは、現在のフランス、いやヨーロッパにとってこの上なくリアルであるに違いない。
本作はオディアールのこの路線の究極といってもいいだろう。ここに登場するのは“難民”である。スリランカの内戦で居場所を失くした男ディーパンが、ほとんどことばも分からぬまま、縁もゆかりもない女・子供と家族を装い、フランス社会に入り込んでいく。シリアをはじめとする中東、アフリカの難民に苦慮するフランスの切実な社会問題に向き合ったわけだ。
『預言者』、『君と歩く世界』に共同脚本家として参加し、『SAINT LAURENT/サンローラン』にも名を連ねるトマ・ビデガンと、ビデガンのアシスタントから出発し『スマート・アス』(劇場未公開)などで注目されたノエ・ドブレが、オディアールとともに脚本を構築。フランスの底辺に蠢く人々の剣呑とした日常をドキュメンタルに浮かび上がらせた脚本のもと、オディアールは難民が生きていくための苦闘をハードボイルドに描いている。
出演は自らスリランカの戦士の過去を持ちフランスで作家となったアントニーターサン・ジェスターサンを主人公に抜擢。共演もカレアスワリ・スリニバサン、カラウタヤニ・ヴィナシタンビなど、日本にはなじみのないインド系の顔ぶれが並び、『ルノワール 陽だまりの裸婦』のヴァンサン・ロティエが脇を締めている。
内戦下のスリランカで戦士として戦い、すべてを失ったディーパンは、難民として移住許可をとるため、見知らぬ女ヤリニと子供イラヤルを家族と偽り、フランスのパリ郊外の団地に移り住む。ここでディーパンは管理人の職を得る。団地は難民、移民、そしてフランス社会の底辺の人々が暮らしていた。
家族を装っても他人の3人。ヤリニにとっては、同行はイギリスに渡る手段だったし、目的のためにキャンプで拾ったイラヤルに対しても愛情が湧かない。ディーパンは黙々と管理人の職をこなし、イラヤルは可愛がるもののヤリニには一線を引いていたが、ともに暮らすうちに親密な関係となる。
ヤリニが老人の面倒をみる家政婦として働きはじめ、その老人のもとに甥の麻薬密売組織のリーダーが居座っていた。やがて団地では密売組織の抗争が勃発。
家族を守ろうとするディーパンとイギリスに逃げたいヤリニの仲は再び険悪になる。だがヤリニが抗争のとばっちりで捕らわれたとき、封印していた戦士の貌に戻ったディーパンは、彼女を救うために殴りこんでいく――。
文化・習慣のまったく異なる世界で懸命に生存しようとする難民の実態を、オディアールはディーパンの軌跡を通して、浮かび上がらせる。彼らが生活を許される場所では、同じような移民や難民、あるいは底辺のフランス人がひしめきあっている。生き抜くためには犯罪も厭わない、文字通り弱肉強食の場だ。そうした社会の一員となり、自分自身のアイデンティティを保とうとするのは容易なことではない。オディアールはこの事実をくっきりと映像に焼き付けている。
難民問題は、ただ単に難民を受け入れればいいわけではない。彼らがこれまで背負ってきた宗教や文化、慣習、価値観をも受け入れなくてはならない。西洋的価値観を押し付けるばかりではなく、彼らの背負ってきた背景を理解した上で、居場所を提供することが肝要だ。そこまでの度量が先進諸国にあるのかは近年のヨーロッパの風潮を考えると、甚だ疑わしい。オディアールの演出はこうした思いをみるものに喚起している。
出演者では、偽装家族を演じたジェスターサン、スリニバサン、ヴィナシタンビの存在感が際立つ。演技経験のないジェスターサンの強烈な個性を軸に、インドの劇団で活動した経験のあるヤリニ役のスリニバサンは女性の微妙な感情の揺れを繊細に表現。オーディションで選ばれたイラヤル役のヴィナシタンビの可憐さが作品に膨らみをもたらしている。
グローバル化によって、移民・難民問題は日本もふくめた先進諸国に加速度的に広がっている。先進諸国が、かつて植民地を有していたときと同じような横柄な姿勢で臨むことでは、もはや対処しきれない。受け入れ反対を唱える保守層を抱えるヨーロッパの国々は大きな決断を迫られている――なんて、本作を見ながらそんなことまで考えてしまった。パルム・ドールにふさわしい仕上がり。必見である。