『あの日のように抱きしめて』は、男と女の切ない情が際立つ愛のノワール。

「あの日のように抱きしめて」main
『あの日のように抱きしめて』
8月15日(土)より、Bunkamuraル・シネマほかにて全国順次ロードショー
配給:アルバトロス・フィルム
Ⓒ SCHRAMM FILM / BR / WDR / ARTE 2014
公式サイト:http://www.anohi-movie.com/

 

 今年は終戦から70年。各メディアはとりわけ終結した8月に、戦争を顧みる企画を集中させている。映画、番組、雑誌や新聞の特集と、それぞれ内容の良し悪しはあれども過去の愚行をみつめなおすいい機会であることは確かだ。戦争を知らないから単純に右傾化する若者も増えたのだろうから。ただ、70年の節目に、痛切に反省し悔いるのは敗戦国ばかりでなく、戦勝国も行なってもらいたいものだ。東京大空襲や広島、長崎の原爆投下の映像、証言をみるたびに、そうした思いに突き動かされる。
 戦争は取り返しのつかない悲劇を生みだし、決して止むことなく現在も続いている。人間は愚行を繰り返す。いったん、起きてしまったら、傷つく者は為政者ではなく翻弄される側の人間たちだ。ぼくたちはこの事実をもっと肝に銘じるべきなのだ。

 2014年に製作された本作もまた戦争の悲劇が題材である。
 本作は、終戦直後のベルリンを背景に肉体も精神も傷ついたユダヤ人女性と、彼女を裏切ったドイツ人夫との切なくも哀しい愛の物語だ。これまでにいくつもあった、ドイツのユダヤ人への贖罪がテーマの映画かと思われるかもしれないが、いささか趣を異にする。『東ベルリンから来た女』でベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)に輝いた監督のクリスチャン・ペッツォルトが挑んだ新作だが、彼は本作をアルフレッド・ヒッチコックの『めまい』を念頭につくりあげたとコメントしている。
 過去に囚われた男女の愛の物語、愛の葛藤に満ちたサスペンス、フィルムノワールだというのだ。フランスのミステリー作家ユベール・モンティエの小説「帰らざる肉体」を下敷きにして、ペッツォルトはベルリンを舞台にした収容所から生還した女性の愛の偏執のストーリーに仕上げた(脚本はペッツォルトと、信頼する監督ハルン・ファロッキが共同で書き上げている)。瓦礫の現実から逃れるように、過去の幻影にすがる男女の姿が儚く、美しく映像に焼き付けられていく。
 映像の画質にこだわるべく、撮影はあえてフィルムを使用。温もりと生命力を映像に活かしたかったからだという。ペッツォルト作品の撮影を常に担当するハンス・フロムをはじめ、時代をくっきりと再現したスタッフの仕事ぶりも目を惹く。
 なによりも鮮烈なのは、挿入されるクルト・ヴァイルの名曲「スピーク・ロウ」だ。ヴァイルはユダヤ人であるがゆえにアメリカに亡命せざるを得なかった経緯がある。アメリカで数々の名曲を生んだヴァイルが手がけたミュージカル「ワン・タッチ・オブ・ヴィーナス」のなかの1曲「スピーク・ロウ」が、ここでは冒頭のベースソロで使われ、続いてヴァイル自身の歌声、さらにヒロインの絶唱につながっていく。時の非情さと愛の儚さを描いた名曲がヒロインの心情にみごとなほどシンクロしているのだ。この音楽の使い方ひとつだけでも必見といいたくなる。
 出演は『東ベルリンから来た女』でも名演をみせたニーナ・ホスと、ロナルト・ツェアフェルト。さらにドイツのテレビ、映画で活動するニーナ・クンツェンドルフが名を連ねる。日本にはあまり馴染みのないキャスティングだが、みごとなハーモニーを画面に奏でてくれる。

 終戦後のベルリンに、肉体も精神もボロボロになったユダヤ人女性ネリーが帰ってくる。“ユダヤ機関”に救われた彼女は潰された顔を整形することになるが、彼女はもとの容貌に戻すことに固執する。
 彼女が唯一、願っていたのはピアニストだった夫ジョニーとの過去の日々を取り戻すこと。だが、ジョニーは彼女が検挙されて収容所送りになった時に離婚証明書にサインした裏切り者だった。
 顔を修復したネリーは、助けてくれた女弁護士の反対を押し切って、米軍相手の酒場“フェニックス”で、掃除夫として働いているジョニーに近づく。しかし、ジョニーはネリーに気づかず、彼女に提案をする。
「君は僕の妻に似ている。妻になりすましてくれ。彼女の遺産を手に入れよう」
 ネリーは何も言わず、ジョニーにいわれるがまま、かつてパリで買った赤い靴、赤いドレスを着せられ、“妻によく似た女”を演じる。どんなに彼女が妻にそっくりであっても、ジョニーは現実をみようとはせずに、過去を再現することに執着するのだ。
 そのことは傷ついたネリーが過去の自分を再確認することにもなった。やがて、ふたりだけの“過去の再現”の日々の仕上げに、彼女をドイツ人の友達に会わせることになったとき、ネリーはジョニーとの約束の曲「スピーク・ロウ」を歌いはじめた――。

 あまりにも過酷な現実に目を向けず、戻ってこない過去に固執するふたりの姿は甘美で悲しい。ネリーの認めてもらえない悲しさもさることながら、自らが裏切った罪の意識からかつての妻を蘇らせようとする、弱い男の情けなさが際立つ。夫は気づかなかったのか、気づきたくなかったのか。「スピーク・ロウ」が切なく、切なく胸を打つ。
 日本では劇場公開本数が少ないものの、ペッツォルトは激動するドイツ社会を背景に、懸命に生きる人間の姿を題材にしてきた。前作『東ベルリンから来た女』では東西ドイツに分断されていた頃の1980年を背景に、ひとりの女性医師の選択を描いた彼が、ここでは数奇な運命を辿るドイツの原点に触れている。
 戦争に翻弄され、結婚生活を引き裂かれたばかりか、自らの卑しさも認めざるを得なかった男と、ユダヤ人ゆえに悲惨な目に遭った女。だが過去に浸り続けることはできず、どこかで足を踏み出さなければならない。ジョニーにとっての“運命の女”ネリーは過去にしか居場所のない男に、どこかで決別を告げざるを得ないのだ。ペッツォルトはふたりの心理の綾をスリリングに浮かび上がらせ、細やかな情の応酬を紡ぎだしていく。前作以上に練り込んだ脚本と、無駄のない演出が光る。脱帽ものの仕上がりだ。

 出演者では何といってもホスの存在感が素晴らしい。身も心も壊されて、ただ愛した夫に執着する心情から新しい一歩を踏み出すまでを、情感豊かに表現してくれる。前作のきりりとした風情も良かったが、フェミニンなイメージから新しい道を選択する逞しさに転じるあたりが絶品だ。

 本作はおとなの機微、感性を持った人間が浸ることができる。それにしても「スピーク・ロウ」には心がふるえる。まことに名曲だ。