日本ではそれほど広く知られているわけではないが、リティ・パニュは間違いなくカンボジアを代表する映画監督である。
パリの高等映画学院(IDHEC)で学んだこともあって、まずヨーロッパで才能を認められ、1994年にカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に劇映画『ネアック・スラエ 稲作の人々』を(フランス、スイス、ドイツとの合作ではあるが)カンボジア映画として初めて出品。続いて1998年には劇映画『戦争の後の美しい夕べ』(カンボジア、フランス合作・日本では東京国際映画祭で上映)をカンヌ国際映画祭“ある視点”部門に出品している。
しかし、日本でパニュの作品を知らしめたのは山形国際ドキュメンタリー映画祭だった。同映画祭2001において、彼の1999年作品『さすらう者たちの地』がロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞)に輝き、同映画祭2003では『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』(2002)が優秀賞を手中に収めたのだ。それ以降も、『アンコールの人々』(2003)や『紙は余燼(よじん)を包めない』(2006)がインターナショナル・コンペティション部門で上映されて、パニュの認知度を深めた。
さらに東京フィルメックス2005のコンペティション部門で『焼けた劇場の芸術家たち』(2005)が上映され、2011年の東京国際映画祭“アジアの風”部門では大江健三郎原作の劇映画『飼育』を選ぶなど、パニュは各映画祭が作品の上映を競う存在となっていった。
劇映画、ドキュメンタリーのジャンルを超えて、パニュは一貫してカンボジアの歴史に翻弄された人々の姿を描いてきた。そうした姿勢は、パニュ自身がカンボジアのポル・ポト政権下のクメール・ルージュの虐殺を目撃したことで育まれた。
カンボジアの豊かな家庭に生まれたパニュは、子供時代にクメール・ルージュによって家族ごと収容所にたたきこまれ、両親や友人を虐殺された経験を持つ。150万を優に超える一般市民の生命が奪われたといわれる状況のなかで、彼は13歳のときに奇跡的に収容所を脱出することができた。
パニュは50歳を迎えるにあたり、本作で初めて自分の経験に向き合い、映像化した。その手法もユニークだ。犠牲者の葬られた土で人形をつくり、その人形たちを使ってジオラマ方式で当時の記憶を再現していく。さらに人形の語る物語とともに、当時の政権のプロパガンダ映像、記録映像が織り込まれる。ヒューマンな人形たちのストーリーとは対照的な無機質な映像を挿入することで、当時の状況を際立たせることに成功している。
映画は、冒頭に劣化したフィルムを映し、観客に直接、語りかけるような一人称のナレーションで展開していく。人形たちはパニュのファミリーがいかに時代に翻弄され、悲惨な状況を迎えたかを淡々と演じる。幸せだった家族が突然、地獄のような境遇に追い込まれ、人間としての尊厳を剥奪されていく姿。監督にとっての私的な体験であるからこそ、抑えた語り口でつつましく映像化している。人形たちの素朴な造形からにじみ出る詩情と、演じられる人間の醜い愚行――これが、それほど昔ではない、わずか40年ほど前に、実際に起きていたことだと知ると、慄然とせざるをえない。
クメール・ルージュの虐殺に関しては、1984年のローランド・ジョフィ監督作品『キリング・フィールド』が題材にしたことがあるが、パニュは自らの壮絶な体験を、大上段にふりかぶることなく、また感傷に走ることもなく、知性を失わずに繊細に紡いでいく。映像の進行とともに、見る者は画面に横溢する詩情に惹きこまれ、深い感動に誘われる。それは、カンボジアの歴史の暗部をさまざまなアプローチで描いてきたパニュが初めてストレートに自分の思いを吐露したことに対する共感であり、ひとりの映画作家がさらなる高みに達したことに立ち会えた感動でもある。
パニュは今後も、この題材の映像化を続けること宣言している。継続は力。こうした愚行はカンボジアに限った問題ではなく、現在でも起きかねないからこそ、彼の宣言に拍手を送りたくなる。本作をみていて、人間は決して歴史を学ばない事実に暗然となる。
本作はカンヌ国際映画祭“ある視点”部門に出品され、グランプリを受賞するとともに、第86回アカデミー賞の外国語映画賞にカンボジア映画として初めてノミネートされた。万人にみてほしい作品である。