『ブラックアダム』はドウェイン・ジョンソンの個性が炸裂したアメリカン・コミック映画痛快版。

『ブラックアダム』
12月2日(金)より、TOHOシネマズ日比谷、丸の内ピカデリー、新宿バルト9、ヒューマントラストシネマ渋谷、グランドシネマサンシャイン 池袋ほか全国ロードショー
配給:ワーナー・ブラザース映画
© 2022 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & © DC Comics
公式サイト:https://wwws.warnerbros.co.jp/blackadam/

 かつてアーノルド・シュワルツェネッガーの人間離れした肉体からターミネーターが生まれたように、ドウェイン・ジョンソンもその容姿にふさわしい当たり役が必要だ。何と言ってもプロレスラー出身、鍛え上げられた肉体は申し分ないし、これまでアクションからコメディまで多彩な作品歴を誇っているのだから、演技面でも経験十分。表情にも強面ながら、どこか愛嬌を感じさせる。後はその容姿にふさわしいキャラクターに出会えるかどうか。

 考えてみると、最初に注目されたのが2001年の『ハムナプトラ2/黄金のピラミッド』だったのが、まわり道する原因だったかもしれない。演じたスコーピオン・キングがあまりにピッタリだったので、このキャラクターを主役に据えた『スコーピオン・キング』が2002年に登場したが、それ以上は続かなかった。

 いや、むしろジョンソン自体が役柄のイメージが固定することを望まなかったともいえる。コメディ演技を好んで選び、アクションでは『ワイルド・スピード MEGA MAX』からシリーズに出演しているが、あくまでも集団のひとりとしての立場を守っている。今やどんな作品であろうとも、ジョンソンの個性で場をさらう自信が映像からも溢れ出ている。

 そうしたジョンソンが幼い頃から憧れ、自身によって映画化を実現するまでに10年以上の歳月を要した作品の登場である。

 小さい頃からDCコミックのファンだった彼は、スーパーヴィランのブラックアダムにとりわけ惹かれたという。褐色の肉体と自分によく似た顔立ちの持ち主で、ヒーローの範疇に収まり切れないキャラクター。しかも、ジョンソン自身の個性を反映する要素がいくつも数えられる。彼がプロデュースを引き受けてまで映画化したい理由はここにあった。

 ジョンソンの意向が強く反映された脚本は『ランペイジ 巨獣大乱闘』のアダム・スティキエル、『モーリタニアン 黒塗りの記録』のロリー・ヘインズとソフラブ・ノシルバンが担当。ブラックアダムのバックグラウンドを書きこみ、彼の怒りの根源にある悲しみをしっかりと描き出した。ただの破壊神ではない、豊かな感情を秘めた存在に仕上げている。なるほど、ジョンソンが演じたかった理由も分かる。強くて、悲しみを背負った孤高のスーパーヴィランである。

 監督にはスペイン出身のジャウマ・コレット=セラが選ばれた。彼はアクション映画のヒットメーカー製作者ジョエル・シルヴァーの覚えめでたい存在で、リーアム・ニーソン主演の『アンノウン』や『フライト・ゲーム』などを手がけたことで知られている。ジョンソンとは『ジャングル・クルーズ』でも組んでいるが、DCコミックの映画版ということで、本作がアクション派としての真価を問われることになる。

 ブラックアダムはスーパーヴィランの位置づけであるので、対抗するヒーロー軍団が登場する。ジャスティス・ソサエティ・オブ・アメリカ(JSA)なるスーパーヒーローのチームで、空の王者ホークマン、未来が見える魔術師ドクター・フェイト、嵐を操るサイクロン、巨大化するアトム・スマッシャーの4人が、ブラックアダムの破壊を阻止しようと立ち向かう。ホークマンは『あの夜、マイアミで』のオルディス・ホッジ、ドクター・フェイトは007役者ピアーズ・ブロスナン、サイクロンは『ヴォイジャー』のクインテッサ・スウィンデル、アトム・スマッシャーは『パーフェクト・デート』のノア・センティネオという、新旧個性際立つ俳優たちが起用されている。

 悪が幅を利かせる現代に、破壊神ブラックアダムが5000年の眠りから目覚めた憤怒に燃え破壊する彼に人間はなす術を知らなかった。向かってくる相手をただただ倒し、街を破壊する。邪悪な組織も無駄に損害を増やすのみ。

 かつてブラックアダムの息子は自らの命を犠牲にして父を守り、その力を父に託した。息子を奪われたことに対する復讐のため、その強大な力を使って暴れまわり、現代においても破壊の限りを尽くす。

 彼の前にはスーパーヒーローチームJSA(ジャスティス・ソサイエティ・オブ・アメリカ)が立ちはだかるが、ブラックアダムの力は強力だった。彼の破壊を阻止する手段はもはや残されていないのか――。

 スーパーヴィランであっても、観客の共感失くしては成立しない。本作では圧倒的にドウェイン・ジョンソンという存在の説得力である。

 とにかく強い、徹底的に破壊しまくる。空も飛べば、銃弾などはものともしない。ジョンソンの不敵な笑みと肉体の存在感で押し切る。細かいストーリーを云々しても、本作はあまり意味がない。みていて痛快そのものの映像に酔いしれ、ぶち壊す爽快感に快哉を叫べば正解だ。

 ジャウマ・コレット=セラはジョンソンの魅力をとことん活かし、猛烈なスピードで疾走する。基本的にストーリーはシンプル、後はアクション、壮大なスケールのスペクタクルで貫く。その明快な割り切り方心地よい。ここにはアメリカン・コミック映画が近年、陥りがちな理屈っぽい世界観や哲学はない。細かい理屈などどうでもいいのだ。ただもうひたすら、ぴちぴちしたスーツに身を包んだジョンソンの肉体の発散するパワーに圧倒されればいい。この姿勢に素直に拍手を贈りたくなる。

 本作の最後の最後に、素敵なサプライズが用意されている。なるほど、こうなると次作が楽しみで仕方なくなる。正月映画にふさわしい作品である。