物故した映画人を偲んで 第1回。 年季の入ったキャップと笑顔が忘れ難い映画監督、トニー・スコット。

トニースコット

 とにかく映画人に会いたいという気持ちから、インタビューの仕事を優先させてきた。最近はめっきり数が減ってしまったが、1980年代から2000年代にかけては、来日する映画人を中心に、数多くのインタビューを敢行してきた。
   取材にあたっては常に“一期一会”の気持ちで臨んでいた。外国人の場合、次に会えるかどうかも定かではないのだから、当然のこと。最大でも1時間足らずの時間内に、通訳を交えて何を聞きだせるというのか。相手の機嫌や体調によっても左右されるし、悩みはじめると際限がない。人となりの一端でもつかめればいい、といった程度の割り切りで臨むのがいちばんいい結果を引き出せる。

「北イングランドの炭鉱が中心の貧しい地域の出身で虐げられた労働者階級。三世代が一丸となって懸命に生き抜いてきた。祖父は炭鉱夫、父は軍隊時代が最良の時代だったという荷役人。そうした家庭だったから、ぼくたちが美術学校に行きたいと頼んだときには、家族は無駄なことだと考えていたようだ。だから兄とぼくの間では、故郷に戻らないという決意、兄弟の絆が強いのだと思う」
 1996年にこんなことばを残したのはトニー・スコットだった。『ザ・ファン』のプロモーションのために来日し、多くの媒体でインタビューをこなした彼は、どちらかといえばポーズをつけたがる兄リドリーとは異なり、ざっくばらんな印象。大きな腹をTシャツで隠し、着古したジーンズと年季の入ったキャップをトレードマークにしていた。
「かぶる人間と同じく帽子も年齢を重ねるべきだという主義だ。帽子をかぶるのは禿げてきたのを隠す目的もあるが、いちばんは撮影するときに有効だからだ。100名を超えるスタッフ・キャストがぼくのことばに注目しているとき、帽子をかぶっていて下を向くと彼らからは顔がみえない。考えをまとめるまで表情を見られたくない」
 兄に対して健全な競争意識はあると語る一方で、長年、映像世界で懸命に生き延びてきた同志だといいきる。7歳年上のリドリーは、トニーを絵画の世界から映像世界に導いた恩人でありライヴァル。その複雑な思いが表情に垣間見えた。
「画家として自分のやりたいことが表現できなかった。そうして動画の世界に入り、映画という表現に行きついた。その過程で、ぼくは自分がアドレナリン・ジャンキーだと気づいた。体内からアドレナリンが出てこないと悲しくなってしまう。その点、映画の監督は資金ぐりをはじめ、困難と試練が常についてまわる。クソッと思いつつも映画を生み出すために乗り越えていくときの緊張感、アドレナリンが体内を走る快感が応えられない」
 クエンティン・タランティーノと出会ったことが、映画監督としての転機になったとコメントした。
「『トップガン』に起用されて、一時期の兄と同じように“映像だけの監督”というレッテルを貼られていた。そうしたときにクエンティンがぼくに“ことば”と人間がいれば映画がつくれると知らしめてくれた。彼の脚本『トゥルー・ロマンス』はぼくの記念すべき作品となった。以降、映画の成功は脚本にかかっていると思うようになった」
   インタビューのメインであった『ザ・ファン』のことよりも、スコット自身を語ったことばの方が印象に残り、まとめた記事も作品の記述が少なくなってしまった記憶がある。兄のリドリーとは何度もおめもじしたが、トニーとは以来、一度も会う機会がなかった。

   2012年、8月19日。トニー・スコットはロサンゼルスのビンセント・トーマス・ブリッジの駐車場から飛び降り、帰らぬ人となった。もはや映画の監督、プロデュースでは、彼の体内でアドレナリンが駆け巡ることがなくなったのか。