『ファンタスティック・フォー』はリアルな青春像が織りなすスーパーヒーロー・アクション!

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『ファンタスティック・フォー』
10月9日(金)より、TOHOシネマズ日劇ほか全国ロードショー
配給;20世紀フォックス映画
© 2015 MARVEL & Subs. © 2015 Twentieth Century Fox
公式サイト:http://www.foxmovies-jp.com/f4/

 

 マーベル・コミック発のスーパーヒーロー作品は、今や常にヒットチャートを賑わす存在として定着している。いずれのヒーローも、容貌や設定に趣向を凝らし、強さとともに心に葛藤を抱えることで見る者の共感を煽る。ヒーローとして練りこまれているのだ。
 なかでも、1961年に登場したコミック「ファンタスティック・フォー」は事故によって特殊な能力を持つに至った4人のヒーローが、チームを組んで戦うことで異彩を放ち、大いなる人気を博した。当然のことながら、2005年には映画化され、『ファンタスティック・フォー[超能力ユニット]』のタイトルで世界的なヒットを記録した。『アメイジング・グレイス』のヨアン・グリフィスやテレビシリーズ「ダーク・エンジェル」でブレイクしたジェシカ・アルバ、後に『キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー』でタイトルロールを演じることになるクリス・エヴァンスなどが顔を揃え、ユーモアを織り込んだ展開が好感を持って迎えられた。2007年には続編『ファンタスティック・フォー:銀河の危機』も製作されている。
 コミックの方は2004年から現代的な意匠となった「アルティメット・ファンタスティック・フォー」が登場。このコミックをもとにしたリブート版が待望されるようになった。 
 誕生したのが本作である。マーベル・コミックを代表するこのスーパーヒーロー・チームに新鮮さを加味するために抜擢された監督は、『クロニクル』でデビューを果たしたジョシュ・トランク。劇場用作品の監督は2作目という新鋭に任せたのはそれだけ才能を評価したということになるが、撮影に入るまでに紆余曲折はあったようだ。
 まず、脚色には『DEATH NOTE』ハリウッド版に参加する予定のジェレミー・スレーターが起用されたものの、まもなく『キングスマン』などで知られるマシュー・ヴォーンがプロデューサーに加わり、「高慢と偏見とゾンビ」の原作者セス・グレアム=スミスが脚本のリライトに参加。さらに『Mr.&Mrs.スミス』や『X-MEN:ファイナル ディシジョン』などを手がけたサイモン・キンバーグが脚本とプロデュースに加わることになる。
 船頭が多いなかで、トランクは頑張ったと思うが、アメリカの批評家筋の評価は芳しくなく、興行的にもマーベル作品には珍しく数字が上げられなかった。
 だが、この作品は決して捨て去っていいものではない。スーパーヒーローの活躍を描く命題はかろうじてクリアしつつ、傲慢さや危うさを内包したキャラクターたちが人間的な感情にどのように折り合いをつけていくかという展開に帰結している。いうなれば、個性に富んだ人間たちが超能力というハンデを背負い、最後は協調して戦うことを身につける、陰影に富んだ成長物語となっている。
 明朗とは対極の、短所が目立つキャラクターとなったのは、『クロニクル』をみても分かる通り、トランクらしさの表れ。ここでも行動が劣等感と優越感に左右される若さの危うさがしっかりと映像に焼き付けられている。青春期の痛さ、切なさも内包した仕上がりで、むしろ人間の機微に通じた日本で評価される作品ではないだろうか。
 出演は『セッション』のマイルズ・テーラーに『トランセンデンス』のケイト・マーラ、『クロニクル』のマイケル・B・ジョーダン、『リトル・ダンサー』のジェイミー・ベル、『ロックンローラ』のトビー・ケベルなど、若手個性派が選りすぐられている。

 荒んだ家庭環境の孤独な少年リード・リチャーズは発明オタク。同級生のベン・グリムと友達となり、ふたりで物質転送装置の研究に熱中した。
 周囲の理解が得られないまま研究を続けて7年。装置による転送成功がバクスター財団のストーム博士に認められ、リチャーズは財団の学生研究員となる。
 施設には博士の娘スーと息子のジョニー、そして転送装置の研究で先んじるビクターがいた。自分に先んじるビクターに対する羨望やスーに対する好意が入り混じるリチャーズだったが、なんとか全員が力を合わせて装置が完成。リチャーズはグリムを呼び寄せ、軍事利用される前にビクター、ジョニーとともに試運転。異次元空間“プラネット・ゼロ”に向かう。
 そこは想像を絶する空間だった。あわてて戻ろうとするなか、ビクターが行方不明になる。リチャーズ、ジョニー、グリムはなんとか戻ることができたが、装置を操作していたスーをふくめ、異次元のパワーによって超能力を身につけることになった。リチャーズは肉体がゴムのように伸縮し、スーは透明となり、ジョニーは炎で身を包むことが可能になった。さらにグリムは全身が岩石となった。
 彼らは軍によって厳しい監視下に置かれるが、リチャーズは脱走。グリムは兵器として軍に協力するなど、それぞれがバラバラになる。軍は軍事利用に“プラネット・ゼロ”に兵を送りこむが、そこには変わり果てたビクターが待ち構えていた。彼の恐るべき策略で地球が危機に瀕した。このことを知ったリチャーズは他の3人とともに、ビクターを阻止しようとする――。

 自意識が強い若者たちの才能を利用するおとなたちという図式のもと、超能力を得ることによってノーマルではいられなくなった哀しみが本作では漲っている。
 能天気な前の2作と大きく異なるし、原作のムードを踏襲しているわけでもないのが、アメリカで不評の理由だろう。だが、トランクを起用した時点で、キャラクターがリアルな肌触りを帯びるのは想像がついたはず。彼の才能を認めたのなら、もっと思い通りにさせてやるべきだった。CGやVFXを駆使するセンスに秀でているトランクは、制約のなかでも、きっちり自分の世界観を貫いているのだから。
 若者たちの心模様に注力したことで見せ場が少なくなったとの指摘もあるが、クライマックスの迫力は見応え充分だ。

 出演者もテーラーが自意識の強いリチャーズを演じきったのをはじめ、それぞれがキャラクターをさりげなく表現していて好感を覚える。とりわけ彼らが極めて人間的な感情を持っているがゆえに、肉体的な変化に混乱するあたりがみどころである。

 青春の未熟さ、傲慢さ、哀しさが映像に焼き付けられた作品。これは一見に値する仕上がりだ。