『博士と彼女のセオリー』はスティーヴン・ホーキング博士と妻の軌跡を紡いだ、素敵な伝記ドラマ。

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『博士と彼女のセオリー』
3月13日(金)より、TOHOシネマズ シャンテほか全国ロードショー
配給:東宝東和
©UNIVERSAL PICTURES
公式サイト:http://hakase.link

 

 実在の人物のドラマを構築する場合、とかくきれいごとに終始しがちだ。モデルとなる人が生きていればなおさらのこと。当人に斟酌し、都合の悪いことは描かずに美談でまとめることに力を注ぐ。映画化されるほど波乱万丈のストーリーでありながら、伝記映画の多くが退屈なのは、コーティングされた美談になってしまっているからだ。
 第87回アカデミー賞の作品・主演男優・主演女優・脚色・作曲の各賞にノミネートされた本作は、正直さという点で群を抜いている。ぐいぐい惹きこまれる。日本でも知名度の高い理論物理学者、スティーヴン・ホーキングと妻ジェーンの軌跡にかなり深く分け入っているのだ。夫婦間のデリケートな問題を扱っていて、よく当事者が許したものだと思う。
 原作となったのは、ジェーンが著した「Travelling to Infinity: My Life with Stephen」。これをもとに、ニュージーランド出身の作家で脚本家のアンソニー・マクカーテンが脚色。ホーキングとジェーンの許可を得るために再三にわたる改稿を行ない、長い期間をかけて承諾を得たという。必然的にホーキングの功績に至るまでの学術的な過程よりも、彼とジェーンの愛と葛藤に力点が置かれたストーリーとなっている。
 監督は『マン・オン・ワイヤー』で知られるイギリス出身のジェームズ・マーシュ。伝記ドラマは、ドキュメンタリーとフィクションを行き来する彼にとっては格好の題材。過度なセンチメンタリズムやセンセーショナリズムを排して、並はずれたふたりの軌跡を淡々と綴っている。肉体的なハンデを背負いながら、知性によって精神の翼を広げて宇宙の端まで旅することに成功したホーキングと彼を支えたジェーンとの、葛藤の連続の日々を瑞々しく描き出していく。
 出演は、本作のホーキング役でアカデミー主演男優賞に輝いたエディ・レッドメイン。筋委縮性側索硬化症(ALS)という難病によって、徐々に肉体の自由が奪われ、ついには声も失ってしまうホーキングの葛藤をみごとな演技で表現している。四肢の動きや表情が失われていく25年間の状態の変化を、筋肉の鍛練と際立った観察力によって再現してみせるのだ。病魔の進行とともに変わっていく容姿を目の当たりにさせられると、アカデミー受賞も納得がいく。
 共演は『今日、キミに会えたら』(劇場未公開)で注目され『アメイジング・スパイダーマン2』に抜擢されたフェリシティ・ジョーンズ。舞台で育んだ演技力には定評があり、本作でアカデミー主演女優賞にノミネートされたことで、さらなる飛躍が期待されている。このジェーン役は説得力のある演技でないと共感が得にくいキャラクターだけに、ジョーンズの巧みさが際立った。
 加えて、『スターダスト』のチャーリー・コックスに『奇跡の海』のエミリー・ワトソン、『シャンドライの恋』のデヴィッド・シューリスなど実力派が脇を固めている。

 1963年、イギリスのケンブリッジ大学で理論物理学を研究するスティーヴ・ホーキングは、同じ大学に通うジェーンと出会い、恋に落ちる。
 相思相愛のふたりは喜びの日々を送り、その体験がホーキングに新たな発想をもたらすことになったが、突然の病魔がホーキングを襲う。筋委縮性側索硬化症と診断され、余命2年を宣告される。
 絶望の淵に立たされたホーキングに、ジェーンはひるむことなく彼と結婚することを宣言する。周囲の温かいまなざしとジェーンの介護によって、ホーキングは研究を続け、やがて余命の期限が過ぎる頃に長男が誕生。さらに長女も誕生する。
 1974年にホーキングはネイチャー誌に理論を発表し、注目される存在となるが、ジェーンは子供の世話と介護に疲労困憊してしまう。気晴らしに教会の聖歌隊に入った彼女は指揮をするジョナサンと知り合う。彼は介護の手伝いを申し出て、ホーキング家に出入りするようになる。
 まもなく、ジェーンは第三子を妊娠するが、子供はジョナサンの子という噂が立つ。傷ついたジョナサンは身を引こうとするが、ホーキングが引き止める。ホーキングはジェーンがジョナサンに惹かれていることを知っていた……。
 やがて、肺炎に罹って、生命の危険に陥ったホーキングは声を失うことになる。一方で学術的な成果を上げていたホーキングは、ジェーンに向かって、ある決意を口にする――。

 愛する気持ちと若さで、ホーキングとの結婚を選択したジェーンの奮闘の日々といえばいいか。ロマンチックな恋愛時代から、一気に介護をする日々に入った彼女の努力は並々ならぬものであり、彼女の支えがあってホーキングが学術に打ち込めたことも疑いがない。
 それでも月日は残酷なものだ。ホーキングの病状が進行し、彼女は子供の世話に追われながら介護することに、次第に疲れてくる。そうした頃に、優しく相談に乗ってくれる男性が現れる。彼女が惹かれることは想像に難くない。
 そうした彼女の変化を、聡明なホーキングが感じないはずがない。彼は彼で、ジェーンなしには生きられない状況を苦しんでいたのだ。やがて、ホーキングはジェーンのいない生活に向けて第一歩を踏み出す。
 どちらが悪いわけでもなく、起こってしまう心の変化を、マーシュは誠実に浮かび上がらせる。単なる偉人を盛りたてた夫人の美談ではなく、夫を懸命に盛りたてて疲れ切り、他の道を選ぶに至った美しい話として映像に焼き付けている。この心の変容を描くことで、本作は誰もが共感しうる普遍性を獲得することになった。
 マーシュは音楽やファッション、背景などでふたりが生きてきた時代をさりげなく浮かび上がらせながら、誠実な語り口を維持している。結末も好もしいし、アカデミー作品賞にノミネートされた理由もわかる。

 俳優ではやはりレッドメインが印象的だ。『グッド・シェパード』や『美しすぎる母』、『レ・ミゼラブル』などで個性を発揮してきた彼が、ここではホーキングに成りきっている。こうした難病のキャラクターを演じるのが賞の近道といわれるが、レッドメインの演技はなによりも素直なアプローチで好感度が高い。ジェーンを演じたジョーンズもうまいのだが、役柄で幾分、損をしたか。本作の演技を見せられると、ふたりが映画界の次代を背負う存在であることは疑う余地がない。

 ありがちな夫婦美談の意匠ながら、どっこい、愛の在り方を考察した見ごたえのある仕上がり。俳優たちの演技もふくめ、必見といっておきたい。