『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』は、”アメリカ文学史上の奇跡“と称えられた女性詩人の軌跡を誠実に描いた逸品。

『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』
7月29日(土)より、岩波ホールほか全国順次ロードショー
配給:アルバトロスフィルム/ミモザフィルムズ
©A Quiet Passion Ltd / Hurricane Films 2016. All Rights Reserved.
公式サイト:http://www.dickinson-film.jp/

 

生前は殆ど無名のままで生涯を送り、死後発見された1800篇の詩によって後世の人々に大きな影響を与えた女性、エミリ・ディキンスンの生涯を描いている。未だ女性の権利も認められていなかった19世紀にあって、己の想いに忠実であろうと努めたディキンスンは当時の封建的な社会のなかでは理解を得られず、孤独な日々を送った。決然と自らと向き合い、豊かな感性を育み生涯を終えた彼女の軌跡を、テレンス・デイヴィスが誠実に紡いでいる。

 

そもそも筆者が本作に興味を惹かれたのは、監督にデイヴィスの名があったからだ。

日本では、彼の作品はカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞に輝いた『遠い声、静かな暮らし』と、ジーナ・ローランズ主演の『ネオン・バイブル』(1995)が劇場公開された程度で、あまり知られていない。

個人的には日本公開前、ロンドンの劇場で『遠い声、静かな暮らし』に接し、たちまちデイヴィスの映像世界には魅了されたことを記憶している。映画はリヴァプールの労働者階級の家族の1940年代から1950年代に至る歩みを、家族の記憶の赴くままに描き出していく。粗暴な父に扮したピート・ポスルスウェイトの強烈な存在感も忘れがたいが、『慕情』や『ライムライト』などの映画音楽をはじめ、クラシック、賛美歌からポピュラーの曲の数々を作品に散りばめたスタイルに惹かれた。音楽の記憶と映像が融合し、まさに庶民の記憶の流れそのままの映像が綴られていた。後に聞けば、デイヴィス自身の家族にまつわる出来事だという。

順番が逆になってしまったが、半年後に『The Terence Davies Trilogy』を香港国際映画祭で見て、ますますデイヴィスに惹きつけられてしまった。この作品は3つの短編からなっていて、いじめと体罰の日々を送る少年時代、同性愛が罪だった時代の壮年期、母の死によって孤独に苛まれ街をさまよう初老期が描かれる。最終話に名曲「Someone to Watch over Me」を巧みに挿入していたのが印象的だった。ロバート・タッカーの人生ということになっているが、デイヴィス自身の人生が反映されているのは間違いない。

この時代のデイヴィスは自伝的な世界に固執していたようで、続く『The Long Day Closes』では孤独で映画に慰めを見出している11歳の少年のストーリーが描かれる。『風と共に去りぬ』などの主題曲が織り込まれ、漂うような移動撮影がデイヴィスらしかったが、日本での公開はなく、筆者はカンヌ国際映画祭で触れることができた。

この作品以降、『ネオン・バイブル』や『The House of mirth』、劇場未公開の2011年作『愛情は深い海の如く』と、原作のある題を脚色・監督するケースが増えていく。自伝的作品とは打って変わって、誠実にストーリーを紡ぎ、特に『The House of mirth』と『愛情は深い海の如く』では抑圧された社会に立ち向かう女性に焦点を当てていた。

 

こうしたデイヴィスの軌跡をさらってみると、本作に挑んだ理由も分かる。1830年にマサチューセッツ州アマストの上流階級に生まれ、封建的な社会のなかで懸命に自我を失わずに詩作に生きた女性エミリ・ディキンスンは、まさしくピューリタン的社会に屈することがなかった。生前は10篇の詩しか発表せず、死後に才能を認められたことは、女性に対して門戸が開かれていなかった時代ゆえの悲劇。テレンス・デイヴィスは彼女の軌跡をリサーチし、あくまでも彼女の精神に忠実なストーリーに仕立てている。

出演は、テレビシリーズ「セックス・アンド・ザ・シティ」のミランダ役で日本でも知られるシンシア・ニクソンに『ナッシュビル』の懐かしいキース・キャラダイン。さらにテレビシリーズ「高慢と偏見」で注目されたジェニファー・イーリーなど、実力派俳優が揃っている。

 

裕福な家庭で生まれ育ったエミリ・ディキンスンはマウント・ホリヨーク女子専門学校に通っていたが、清教徒的な教育を潔しとせず、信仰に対しても懐疑的な思いを抱いていた。彼女の態度を危ぶんだ父エドワードは彼女をアマストの実家に連れ帰る。

両親と兄オースティン、妹ラヴィニアとの生活に戻ったエミリは父に夜中に詩作をする許可を得て、作品を紡ぐ。父は当時の男性としては進歩的で、当時の常識からはみ出たエミリに頭を悩ませながらも、新聞の編集長に口添えをして、彼女の詩の掲載を実現させる。

妹の友達で資産家の娘ヴライリング・バッファムに紹介されたエミリは、ヴライリングのユーモアの精神と進歩的な考えに影響を受ける。

兄が帰郷し、父の仕事を継ぎ、やがて結婚。アメリカは南北戦争で2分され、兄は従軍を願うが、父は許そうとしない。さらに兄夫婦の悩みも聞かされるエミリだが、彼女は外に出ることはなく、ひたすら出来事をみつめることで、受けた思いを死に反映する日を続けていく。

ヴライリングの結婚、父の死、そして母の死も体験して、エミリの心は自からの気持ちに固執するようになる。やがてエミリはブライト病を発病、1800篇の作品を残して、55歳でこの世を去った――。

 

ディキンスンに傾倒し、脚本と監督に挑んだデイヴィスだが、史実に忠実に軌跡を追っているわけではないという。あくまでもディキンスンのキャラクターを際立たせるために、デイヴィスは周囲の人間たちも絞り込む一方で、ヴライリングという想像上の人物を設定。女性の生き方が制約された社会にあって、孤独を恐れず、詩人としての生き方を貫いた存在としてディキンスンを規定し、彼女を軸にした会話劇に仕上げている。

遭遇するさまざまな事象に対して仮借ない意見をいい、時に頑なな態度をみせる彼女の姿を通して、19世紀アメリカの女性の置かれていた状況が浮かび上がる展開。上流階級に属していたがゆえに、詩人としての生き方を全うできた彼女は、家族や近しい女性たちから男性優位社会の在り様を痛感させられる。実家に閉じこもっていたことで、彼女は生き方を貫くことができた。とりわけ病に罹ってからは、生と死に対する思いが作品や生活に大きく影を落としていく。デイヴィスは初期の自伝的作品とは異なり、彼自身が把握するディキンスン像を会話劇のスタイルのなかで誠実に映像化している。巧みな音楽の使い方や撮影にわずかにデイヴィスの個性を感じられる程度。極めて生真面目な語り口だ。

アマストにロケーションを敢行。『愛情は深い海の如く』でも組んだフロリアン・ホーフマイスターの撮影のもと、社会を傍観し続けたディキンスンの姿を陰影に富んだ映像に焼きつけている。全編にディキンスンの詩を散りばめ、会話劇の伝記映画として成立させるべく、細やかな演出を繰り広げる。まさしく“静かなる情熱”に満ちた世界。デイヴィスの映像感性が本作で存分に堪能できる。

 

出演者ではディキンスン役のシンシア・ニクソンの熱演が光る。辛辣で世間離れしたヒロインに成りきり、苦しみ、孤独、ささやかな喜びをきっちりと具現化させている。これまであまりスポットライトを浴びてこなかった女優だが、本作で実力を発揮している。

 

もともと、詩人の生涯を描いた作品はそれほど多くない。詩作する姿をどのように映像にするのかも難しいから、勢い、アプローチはドラマチックな軌跡に偏りがちだ。奔放な行動の存在を選びがちだ。ところが、ディキンスンは後世に多大な影響を与えたものの生前は無名で、実家に留まって世界を見つめた存在。デイヴィスはこの詩人の魂を焼きつけることで、作品に仕上げた。一見をお勧めする所以である。