『沈黙-サイレンス-』はマーティン・スコセッシが28年間熱望していた、遠藤周作名作小説の映画化。

『沈黙-サイレンス-』
1月21日(土)より、全国ロードショー
配給:KADOKAWA
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公式サイト:http://chinmoku.jp/

 

 初めてマーティン・スコセッシの作品に接したのは、エレン・バーンステインがアカデミー主演女優賞に輝いた『アリスの恋』だった。日本公開は1975年だったか、スコセッシの監督作品としては初めての日本公開であり、その才能に興奮したことを記憶している。

 そして極めつけの『タクシードライバー』が1976年の日本公開。あまりにも有名なこの作品がカンヌ国際映画祭のパルム・ドールを手中に収めたことで、スコセッシと主演のロバート・デ・ニーロ、ジョディ・フォスターは一躍、メジャーな存在となった。この成功によってスコセッシの『明日に処刑を…』(1972)が公開され、以降、『ニューヨーク、ニューヨーク』や『ラスト・ワルツ』、『レイジング・ブル』と話題作が立て続けに送り出され、彼の演出力が高く評価されるようになったのだ。確か、出世作『ミーン・ストリート』が公開されたのは1980年頃だったと記憶している。

 スコセッシの足跡は多彩な監督作に彩られている。個人的な好みで言うなら『グッドフェローズ』や『カジノ』、最近では『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のグイグイと押し通す、爆走する語り口に快哉を叫んだが、映画に対する膨大な知識を駆使して、彼は今もジャンルを問わずに作品に挑み続けている。

 

 そうしたスコセッシの最新作が『沈黙-サイレンス-』である。日本が誇る小説家、遠藤周作が1966年に発表した「沈黙」を映画化したもので、1988年に出会って以来、映画化を熱望していたという(この小説は1971年に篠田正浩の手で映画化され、脚色には原作者自身も参加している)。20歳代までカソリックの神父になりたかったというスコセッシにとって、この小説は彼の宗教観、精神性を深く刺激するものだったとコメントしている。実は多様にみえて彼の作品のほとんどは魂、精神性のテーマを内包しているのだが、この小説のように神と信仰の意義を正面から見据えた題材には格別の思い入れを持ったと語っている。舞台となる長崎を取材し、歴史や文学を徹底的にリサーチし、構想を温めてきた。

 脚本はスコセッシ自身と『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』や『ギャング・オブ・ニューヨーク』でチームを組んだジェイ・コックスが書き上げた。あくまで原作に忠実に映像化している。

 出演は『アメイジング・スパイダーマン』のアンドリュー・ガーフィールドに、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のアダム・ドライヴァー、『シンドラーのリスト』のリーアム・ニーソン。日本側からは浅野忠信、窪塚洋介、イッセー尾形、塚本晋也、小松菜奈、加瀬亮がオーディションによって選ばれている。

 時代を再現するために、あえて自然が残されている台湾でロケーションを敢行。江戸時代初期の長崎をリアルに再現している。撮影は『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でも組んだロドリゴ・プリエト。美術は『ヒューゴの不思議な発明』のダンテ・フェレッティ。スタッフはスコセッシの信頼が厚いベテランで固められている。

 スコセッシが真正面から神と信仰の問題に挑み、圧倒的な人間ドラマを生み出した。素敵な仕上がりである。

 

 江戸時代初期、日本に布教に向かったクリストヴァン・フェレイラが棄教したという知らせがイエズス会にもたらされた。

フェレイラの弟子であるセバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペはその知らせを信じず、真偽を確かめるべく日本に向かい、マカオで知り合ったキチジローの案内で長崎県五島列島周辺に上陸する。

 出迎えた隠れキリシタンの村人たちに歓迎されるが、キリシタンを取り締まる長崎奉行の追及は過酷さを増していた。ロドリゴとガルペは別々な行動をとることになるが、やがてロドリゴはキチジローの裏切りで奉行に捕らえられ、ガルペは生命を落とす。

 長崎奉行井上筑後守はロドリゴに棄教を迫る。ロドリゴは神の奇跡を祈るが神は沈黙するのみ。棄教しないロドリゴに、長崎奉行は信者を拷問し精神的に追い詰めていく。

 さらにフェレイラがロドリゴの説得にやってくる。今は日本名を持ち、ひっそりと暮らしているフェレイラはロドリゴと同じような精神的拷問によって棄教したのだった。ロドリゴはついに踏み絵を決断し、奉行の要求に応えることになる――。

 

 スコセッシはロドリゴの視点から江戸時代のキリスト布教状況を描き出す。最初は布教を絶対のものとする、若さゆえの傲慢さを内包している彼が、キリスト教にすがるしかないキリシタンたちの姿を目の当たりにして、次第に宗教と信仰の問題を内省していくことになる。そのプロセスをスコセッシは過不足なく浮かび上がらせる。

 人を救うために神父となったのに、ロドリゴが日本にやってきたばかりにキリシタンたちは拷問され、死に追いやられる事実。彼が棄教することで救われる命があると知ったとき、神父というより、人間としてどんな選択があるのか。棄教したことで、信仰は失われるのか。こうした命題がスコセッシの誠実な語り口によって見る者に問いかけられる。

 注目すべきは奉行側も一面的な弾圧者とは描かれていないことだ。為政者にとっては、宗教は体制を揺るがしかねないもので、イエズス会の布教も西欧文化・価値観の侵略という側面を持つことを知っている。一方、キリシタンの多くは現実の過酷さに耐えるために入信した人たちで、禁じられても信仰を捨てず、殉教することも厭わない。こうした状況のなかで、ロドリゴは苦悩し、信仰のあるべき姿を悟っていく。

 宗教者として、人間としてどうあるべきなのか。スコセッシは説得力のある映像でロドリゴの葛藤、苦悩の軌跡をくっきりと綴っている。1988年にイエス・キリストの姿を人間ドラマとして仕上げた『最後の誘惑』よりも、本作の方がスコセッシの年齢が増した分、信仰に対してより深い考察となっている。

 

 出演者ではロドリゴに扮するアンドリュー・ガーフィールドの初々しいイメージがキャラクターにぴったりはまっているし、フェレイラ役のリーアム・ニーソンは棄教した痛みを抱えつつ、生きながらえることの忸怩たる思いをさりげなく表現してみせる。ガルペ役のアダム・ドライヴァーは直情な気質の宗教者を、減量を課して具現化しているが、何といっても素敵なのはキチジロー役の窪塚洋介、モキチ役の塚本晋也、通辞役の浅野忠信、井上筑後守役のイッセー尾形をはじめとする日本人俳優たち。画面をみていると青木崇高や片桐はいり、EXILEのAKIRAや映画監督のSABUなども登場する。これもスコセッシ作品に参加したいとの現れか。彼らの存在感が外国映画の描く日本の違和感を払拭している。

 

 ロドリゴ・プリエトのカメラがとらえる緑なす大地、美しい海岸線に目を奪われ、そこで語られる濃密な人間ドラマに感動するばかり。信仰を前面に押し出した、スコセッシの近年の特筆すべき作品である。