『母よ、』は、イタリアの匠ナンニ・モレッティが家族の機微を綴った胸に迫る逸品。

『母よ、』
3月12日(土)より、Bunkamuraル・シネマ、新宿シネマカリテほかにて公開
配給:キノフィルムズ
© Sacher Film . Fandango . Le Pacte . ARTE France Cinéma 2015
公式サイト:http://www.hahayo-movie.com/

 

 年齢を重ねるにつれて涙腺がゆるくなった。切なくも激しい愛に涙することは少なくなったが、家族の別れとなると、とたんにハードルが下がる。とりわけ親と子の別れは身につまされることが多くなった。自分も誰かの子であり親であるからだろう。まして親との別れを体験していると、なおさらエモーショナルになる。
 本作は、イタリア映画界で個性に富んだコメディを送り出し、絶大な支持を集めるナンニ・モレッティの新作である。
 モレッティといえば、多くのコメディアンと同様に自作自演を旨としている。社会に対するメッセージや風刺を作品に織り込みつつ、饒舌にして自己諧謔を貫いた語り口で知られているが、日本では残念ながらその存在をあまり注目されていない。
 欧米では、ヴェネチア国際映画祭で特別金獅子賞を受賞(1981『監督ミケーレの黄金の夢』)したのを皮切りに、ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞(1985『ジュリオの当惑(とまどい)』)、さらにカンヌ国際映画祭監督賞(1993『親愛なる日記』)、同映画祭パルム・ドール(2001『息子の部屋』)それぞれ受賞という、世界三大映画祭制覇の足跡が示すように、各国で彼の作家性は高く評価されているのだ。
 モレッティ作品の多くは自身の体験や身辺の出来事を題材にしていて、本作もその範疇に入る。すべての物語は自伝的であると信じるモレッティは、彼の母親が亡くなったことを契機にして本作を執筆した。もっとも本作に関しては自らが主演する気持ちはなく、最初から女性を主人公に据えるべく考えていたという。そのため、まず彼は3人の女性――ガイア・マンツィーニとキアラ・ヴァレリオ、『ナンニ・モレッティのエイプリル』(1998・劇場未公開)などでスクリプターを担当したヴァリア・サンテッラ――とストーリーを構築。これをもとに『ローマ法王の休日』(2011)でも組んだフランチェスコ・ピッコロ、サンテッラとともに、脚本にした。
 もっともヒロインを映画監督に設定し、撮影と介護の板挟みになる展開となるのはモレッティの経験そのもの。女性を主人公にしたことで、ドラマに客観的な視点を持ちたかったのだと思われるが、アメリカ人俳優を迎えた撮影のトラブルなどを誇張しつつ、ユーモアたっぷりに描き、その一方で普遍的な母に対する情を画面ににじませている。
 出演は『ローマの教室で~我らの佳き日々~』や『はじまりは5つ星ホテルから』などで知られるマルゲリータ・ブイ。共演はアメリカから『バートン・フィンク』た『トランスフォーマー』などでおなじみのジョン・タトゥーロ、『フォンターナ広場 イタリアの陰謀』のジュリア・ラッツァリーニ。そしてヒロインの兄役でモレッティが加わっている。
 本作は、第68回カンヌ国際映画祭ではエキュメニカル審査員賞に輝き、イタリアのアカデミー賞にあたるダヴィッド・ドナテッロ賞2015で、ブイが主演女優賞、ラッツァリーニが助演女優賞を獲得している。

 映画監督のマルゲリータは撮影開始早々から、思うような映像が撮れずにイライラしていた。スタッフともめるだけではなく、別れたばかりの男も出演していて顔を合わさなければならない。娘リヴィアは思春期で何かと反抗してくる。
 さらに母のアーダが入院している。兄のジョヴァンニがかいがいしく世話をしているが、マルゲリータが見舞うと“家に帰りたい”と訴える。
 医師はアーダの病は重く、回復することはないと告げる。そのことばにマルゲリータは激しく混乱する。アーダは聡明な教師だった。最近は物忘れがひどく、記憶もあやふやになっている。
 しかし、悲しみに浸っている暇はない。やってきたハイテンションなアメリカ人俳優とともに撮影を進めねばならないのだ。
 その上、アーダは呼吸困難を起こして集中治療室に入り、気管を切開して話せなくなってしまった。ジョヴァンニが休職して看護にあたっていることを知り、マルゲリータは無力な自分を責め、落ち込む。
 そうした精神状態で撮影に臨むが、うまく事は運ばない。アメリカ人俳優はセリフを覚えず、マルゲリータに鬱憤をぶつける始末だ。重い気持ちで病室を訪れた彼女は、歩けなくなった母を怒鳴りつけてしまい、母の胸で泣きじゃくる。
 反省したマルゲリータはアメリカ人俳優を食事に招き、互いの関係に改善を図った。だが、母の方は病が悪化していた。彼女はジョヴァンニとともに医師から母の余命が僅かであることを宣言される――。

 通常であれば親は子より早く死に、子は親の死を体験することで、さまざまな感情に襲われ、それを通して成長する。こうした普遍的な事実を、モレッティは笑いを織り込みながら浮き彫りにしている。
 いかに親を気にかけていても、誰もが仕事となればプロの貌に変わらねばならない。その感情を押さえこむ作業が、一面では悲しみを紛らわすことにもなる。そうした感情の機微をモレッティは細やかに紡いでいく。これまでのどの作品よりも幅広く支持されたのは、生きていくことの哀歓を共感度高く焼きつけたからに他ならない。
 ある意味で、モレッティは母の死を再現しながら、ヒロインを通して自分がやりたかったことを追体験しているともいえる。教師であったアーダの設定はモレッティの母の軌跡を踏襲しているのだ。
 マルゲリータの映画監督としての悩みはまさしくモレッティ自身のものであるのだが、決して感情に流されはしない。自伝的ではあるのだが、節度を持って、むしろ軽やかに描くあたりが彼の知性であり個性だ。この上なく自伝的でありながら、見る者を楽しませ、感動させる。モレッティの円熟を実感させるとともに、人間味も映像から漂ってくる。彼の現時点での最高作というコピーも決してオーバーではない。

 ましてキャスティングが秀抜だ。ヒロイン役のブイは仕事を糧に生きるキャリア女性をみごとに体現。死に向かう親を見守るしかない娘の感情を画面に焼きつける。母を思う一方で、自らも親であること、決して若くはないことが、このヒロインの心情に複雑な陰影をもたらす。ささいな表情、仕草。時には誇張された動作も披露しつつ、愛すべき女性像を構築してみせる。ブイは豊かな表現力と年齢相応の美貌の持ち主。モレッティの狙い通り、この役で彼女を起用したのは正解だった。
 共演陣もタトゥーロが奇妙なアメリカ人俳優を怪演すれば、ラッツァリーニが心に豊かさを持った母を存在感たっぷりに表現、モレッティも感心な兄ジョヴァンニを控えめに演じている。このアンサンブルはみごとである。

 生きている限り、喜びも悲しみも訪れる。親との別れを真摯に紡いで、時に笑いに誘われつつ次第に胸が熱くなる作品。モレッティは素敵だ。これこそ作家性と娯楽性をあわせもったエンターテインメントである。